一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

掲示板

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プログラム、チケット半券(1980.12.28.都市センターホール1階R列15番)

 女王様:お願い、ってどうしたらいゝの? だって、したことないのだもの。
 老兵士:まずこの娘さんの前に膝をついて、「どうか」とおっしゃってください。

 サムイル・マルシャーク作『森は生きている』。古くは劇団俳優座が日本での初演をしたようだが、長年にわたって劇団仲間の十八番演目となっている。十二月の風物詩のようでもある。ヨーロッパ各地にわずかづつ形を変えながら遍在するシンデレラ物語に、ロシア民話を融合させた、児童演劇の名作だ。

 大晦日の晩、お城では大臣や隊長や先生や、外国の大使らが年若い女王様を囲んで、年忘れパーティーの真最中だ。わがまゝな女王様が気まぐれを起す。
 「マツユキソウが観たいわ。だれか、採ってきてちょうだい」
 「陛下、この季節にマツユキソウは無理です。それにほら、外はひどい吹雪です」
 「いゝえ、どうしても観たいの。すぐ城下に触れを出しなさい。カゴ一杯のマツユキソウを採ってきたものには、カゴ一杯の金貨をあげます」

 村はずれの一軒家に、欲張りな母親と意地悪な娘と、けな気な働き者の継娘とが住んでいた。欲に眼がくらんだ母親は、森へ入ってマツユキソウを摘んでこいと、日ごろから森をよく知る継娘を、吹雪のなかへ追出してしまう。摘むまで帰ってきてはならぬと。
 おりしも大晦日の夜、人間などやってくるはずもない森の奥では、各月の精たち十二人が年に一度勢揃いして、かゞり火を焚き、動物たちをも呼び集めて、年越しの儀式をすることになっている。今年もどうやら顔ぶれが揃った。
 そこへ、来るはずのない人間が一人、身も心も凍えきった少女が迷い込んでくる。
 「さぁさ娘さん、火のそばへお寄り」
 いよいよこゝから、ロシア民話の神秘的奇跡の始まりだ。

 客席の子どもたちは身を乗出す。落着きのない子は席を離れて、舞台際まで歩み進もうとしては、お母さんに止められたりしている。

 この演目を十八番に仕上げたのは、演出家・俳優にして劇団指導者の中村俊一さんだった。飯が食えぬが通り相場の新劇をいかにして成り立たせるか。中村さんは、浅利慶太さんとは対極的な方法を採った。
 浅利さんの「四季」は、劇場を巨きくしたり、常打ち小屋を確保してロングランすることで、採算を取ろうと考えた。中村さんの「仲間」は、劇場に来られない、芝居を観たくても観られない、全国津々浦々の観客のもとへ、芝居を運び届けようと考えた。『森は生きている』は全国を回った。そして毎年十二月は、東京公演である。

 宝仙寺での、中村俊一さんの葬儀のさいに代読された、とある女性観客の弔辞が忘れがたい。
 ――私は秋田から集団就職で上京しました。言葉の訛りが恥かしくて、寮の仲間たちとも、あまり話が弾みませんでした。
 当時の愉しみはといえば、工場の休日に伊勢丹を観に行くことでした。買物なんかできません。あんなものがあった、あれはきれいだったと、憧れて、眺めて帰ってくるだけです。

 ――ある帰り道、近所の掲示板で『森は生きている』のポスターを観て、びっくりしました。かつて山の分教場の講堂で観たお芝居です。それまで私は「仲間」を秋田の劇団だとばかり、思い込んでいたのです。だからこんな小さな分教場にまで、来てくれたのだと。東京に本部のある、全国を股にかけて活躍する劇団だとは、想像もつきませんでした。
 私は知らぬうちに、佳いものを、一流のものを、観せてもらっていたのだと、気がつきました。寮へと走りました。同室の仲間たちの手を引っぱって、掲示板まで連れてゆきました。
 「ワタシ、これ観たんだよ。憶えてるよ。キレイだったよ。面白かったよ」
 それからはコンプレックスから解放されたように、よく喋れるようになり、寮にお友達もたくさんできました。

 ――当時は想いも寄らぬことでしたが、東京で結婚して、今も東京に住んでおります。子どもが三人できました。小学五年になると、『森』を観せに連れてゆくことにしています。おかげさまで、いよいよ今年は三人目を、連れてまいります。
 中村俊一先生、どうもありがとうございました。

 今年の十二月も東京のどこかで、劇団仲間が『森は生きている』を上演することだろう。たくさんのお母さんたちが、子どもの手を引いて、やって来ることだろう。