一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

西向く侍

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ジョン・スタインベック(1902‐1968)

 ――大切なのはここまでやってきたことではない。西へ向って進みつづけたそのことが大切なのだ。
 ――やがてわしらは海に出た。それですべてはおわった。
                        『開拓者』西川正身

 盆地の牧場に育ったジョーディ少年は、山の向うの地へはまだ行ったことがない。気候風土や動植物に密接な環境で、感受性豊かに育ちつゝある少年だ。牧場主である父は厳格で口うるさくはあるが、筋の通った正義漢で、母は気丈ながら思いやり深い女性だ。牧場の仕事になら神様のように精通している牧童頭のビリー・バックもいる。

 『怒りの葡萄』をもって、スタインベックを偉大なアメリカ作家とする読者があろう。『二十日ねずみと人間』をもって、現代にも通底する問題を書いた作家とする読者もあろう。映画も大ヒットした『エデンの東』をもって、永遠の記念碑的青春物語とする読者もあろう。
 が、自伝的連作『赤い小馬』を読んだ読者は、スタインベックを大好きな作家の一人に数えるようになるに違いない。『開拓者』もそのなかの一篇だ。

 たまに山を越えて、お祖父さん(母の父)がやってくる。西部開拓史の武勇伝を繰返し語る。周囲は耳にタコだが、人の気も知らぬげに、倦むことなくまた語る。
 かつて彼らは幌馬車を連ねて、西へ西へと命がけの旅をしてきた。新天地を夢見る者、一攫千金の野心に憑かれた者、人に追われて東部から逃げ出した者。動機も人柄もまちまちで、たゞ「西へ」の一点のみ共有していた集団をまとめあげる苦労。幌馬車隊のリーダーだった祖父にとっては、その苦労こそが半生の絶頂であり華であり、誇りだった。
 今、そんな話を好んで聴きたがる人間など、どこにもいない。だが彼には、心に張りをもって語れる話題など、ほかにはない。

 まだこの先に西がある。そう信じられた時代のアメリカ人は、前向きで、意欲的で、健全だった。開拓開墾や牧畜の苦労にも、先住民族との諍いにも、町造りや自治にも、多大な犠牲を伴いながら、幾多の苦労を乗越えてきた。
 だがある日、この丘の向うにはまだどんな土地が。そう思って丘の頂上に立った人々の眼に入ってきたのは、見はるかす海原、太平洋だった。
 これ以上、西へは行けない。アメリカ人の複雑面倒な問題は、こゝから深刻化した、または深く内向化したと申しても過言ではない。

 ハワイを統治するようになったとき、日本と戦争したとき、ヴェトナム戦争に介入したとき、アメリカ人たちは心の奥の奥の奥底で、どう感じていたのだろうか。むろんご本人たちすら無意識のうちに、である。

 『朝めし』という短篇が『スタインベック短編集』に収録されている。
 棉花収穫の季節労働者としてテント暮しをする家族のもとへ、ある朝ふらりと、一人の旅人が通り掛る。寒いなか夜どおし歩き続けて、山を越えてきたと見える。
 がんがん火の燃えるストーブの前へと案内され、ベーコンとパンとコーヒーだけの、つましくとも温かい朝食をご馳走になる。仕事を探しているなら棉花農場に紹介するとの親切な誘いを辞退して、旅人は厚く礼を述べ、発ってゆく。
 たったそれだけの噺で、文庫本でわずか五ページの、思いっきり短篇だ。

 方向方角、方面や地形など、なにも書いてない。が、アメリカ人はこの短篇を読んで、旅人は東からやって来て、西に向けて発っていったと、解るそうだ。それ以外には考えられぬそうだ。
 「西へ行く」ということはアメリカ人にとっては、まるで遺伝子配列に組込まれてでもいるかのような、根深く骨がらみの、根本的感性だったそうだ。スタインベックが書いているように、それが徐々に変ってきている、通じなくなってきているという問題が、発生しているのだろう。

 アメリカ人の精神性について、私はなにも知らない。たゞ日本にも、似た問題はありそうだと、思うまでのことである。