一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

ふいに

ムーランルージュにて(1890)カンヴァス油彩 115,5×150㎝〈部分〉

 ロートレックに興味を抱いたことのある人に、彼を知らぬ者はあるまい。ホール中央で、周囲の客たちの視線を集めて、ムーランルージュ専属の人気ダンサー、ラ・グリューを相手に、得意のダンス・バトルを披露しているのはバランタン氏だ。

 長身の躰は柔軟で、異様なまでに細長い腕と脚をクネクネさせて踊る独特な姿を、だれも観誤ることはありえない。定連仲間は彼を「骨なし」と、あだ名で呼んだ。
 後世の我われは、この画よりもむしろポスターで、デザイン化された彼「骨なしバランタン」のシルエットを、より鮮明に記憶している。
 この夜も、自慢のダンスで目立とうと、踵の丈夫なシューズを履いてきている。ラ・グリューのほうはもとよりプロだ。貴婦人がたとは異なるダンスシューズを履いているし、シースルーの薄ものスカートを身に着けている。
 この二人のバトルが熱を帯び、真剣にわたり合うようになってしまうと、ほかの客たちは周囲へ退き、取巻いて観守るしかない。
 遠景の取巻きには、もう一人のダンサー、ジャヌ・アヴリルもいるし、画家の父親らしき顔も見えている。

ルイ・パスカル氏(1893)厚紙油彩 77×53㎝〈部分〉

 伯爵である父から画家が勘当されたのちも、従兄弟にあたるルイ・パスカル氏だけは画家に信頼を寄せ続けた親友だった。いつも折り目正しく、英国紳士風をキメていた。数多くのイギリス人が、パリへ流入していた時代だった。

カフェのボワロー氏(1893)厚紙油彩 80×65㎝〈部分〉

 定連の一人ポワロ―氏が何者だったか、今では研究が進んで判明しているのかも知れないが、私がこの画家に夢中だった四十年前には、突き止められてなかった。が、いかにも酒好きな憎めぬ貫禄は、その頃も今も変りがない。

 ロートレックは画家というより、絵師だった。芸術家というより、似顔絵職人だった。踊子をも娼婦をも、酔漢の醜態をも同性愛の現場をも描いたが、動力は芸術的関心なんぞではなく、おおっぴらにできぬモデルの内面への寄添いだった。
 ドガは「踊子」を描いたが、ロートレックは踊子の一人である「ナニガシ嬢」を描いた。モデルその人への興味を、造形一般・色彩一般・人間一般へと、芸術的拡大してしまうことを、けっしてしなかった。
 ナンノ誰兵衛を描いたと、画家の意識がモデルの中心へと一本化されてある傑作は、マネにもルノアールにも、セザンヌにもゴッホにも、あるにはある。が、作品点数が桁違いだ。ロートレックにおいては、おゝかたの作品がさようである。

ムーランルージュを出るジャヌ・アヴリル(1893)厚紙油彩 63×42㎝〈部分〉

 チップをもらってダンスの相手をする。指名客が引きも切らぬ人気絶頂のジャヌ・アヴリルだが、店の灯が落ちて、通用口からそっと出るときには、ひとりの寄る辺なき女性である。声を掛けてくるものもない。今すれ違ったのがジャヌだったと、気づくものすらない。踊っているときとは似ても似つかぬ、淋しげで、きびしく引締まった顔をしている。
 .イタリア貴族がパリの娼婦に産ませた娘だ。どんな蔑みを受け、いかほどの屈辱に耐えてきた女性だったろうか。顔にも言葉にも、出すことはなかったろう。が、ロートレックはこのダンサーにことのほか惹かれ、格別大事にした。特別扱いと申してもよろしいほどだ。

 ふいにロートレックさんがやって来て、どれか一枚あげようと、もしおっしゃってくださったら、私はこれを所望しようと、若いころから決めてある。