一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

通路



 午後からの空模様はどうなのだろうか。怪しい。けれど朝がた涼しいのは、助かる。

 梅雨の初めころに草むしりして、三か所ほど小積みにしておいた山が、ひと夏の陽射しと雨とに晒されて、これがもと植物だったのかと思うほどカラカラの乾燥ゴミのようになっている。まずはそれらの埋戻し作業。
 かつて地上部分を伐り倒したネズミモチの切株からは、なん本かの太い根っこが張り伸びていた。そのうちの一本をスコップとノコギリをもってようやくに伐り除いた跡が、思いのほか長さのある穴となった。
 初夏のころ、その穴をふさぐべく、枯草やら、神棚から下げた昨年の注連縄やら、正月の松と玉飾りから腐りにくいものだけ抜取った残りやらに、細かく鋏をいれて埋め、土をかけた。マウンド状に盛上ったので、石やコンクリート片など、そこいらの瓦礫を重しに載せておいた。

 それが今、窪地のようにへこんでいる。ミミズや地中微生物らの働きで、無事土に返ってくれたのだろう。
 窪地に追加の埋戻しをしなければならない。瓦礫を取除き、三か所の植物骸骨を集める。複雑にからまってタタミイワシのようにひと固まりになった枯草たちを、折り曲げたり、剪定鋏で切り刻んだりしながら、埋めてゆく。ひと固まり投ずるたびに、両足で踏んづけ全体重をかける。地下足袋は便利だ。
 さすがに余るかと思っていた枯草の小山が、三つとも収まってしまったのには、改めて唸らされた。質量と体積と余白密度の関係。数学の素養あれば、面白そうな式が立てられるだろうに。
 まだ入りそうだ。が、昨日むしったばかりの、まだ水分ふんだんのナマ草を埋めるのは、気が進まない。近ぢかまた追加してやるから、という気分で、瓦礫は載せずに、平べったい樹脂カゴを伏せかぶせた。雨水や風通しを妨害せぬようにだ。


 昨日引抜いたぶんを視に行く。半分と云っては大袈裟としても、草山は三分の二ほどに低くなっている。地から離れた植物が、体内の水分を蒸散させて萎んでゆく速度はじつに凄まじく、いつもながら驚かされる。もし式を立てられる学力が私にあったらと、こゝでも思う。
 作業途中で昨日は時間切れとなった、オニアザミ対策の続きを、となりそうなところなれど、さようにはまいらない。大場より急場である。


 昨日の舞台は、建屋の北側だった。ガスメーターや水道モーターなどがある。それらが眺められるようにはなった。
 が、そこまで到達するには、建屋を廻りこむように東側を進まねばならない。オニアザミの穂が飛散せぬうちにというのも重要ではあるが、生活の必要から申せば、通路の確保が優先だ。

三十分後。

 東側はドクダミと蔓草類とシダ類が中心。オニアザミもいなければ、セイタカアワダチソウほかの長身類もいない。手がかゝるものといえば、ネズミモチの切株から芽を吹くひこばえと、数か所に小群生するクマザサくらいのもの。草類とは異なりいずれも手で引っこ抜くことは不可能で、根元を探って剪定鋏で切らねばならない。
 しかしこちらのネズミモチは幼木のうちに伐り倒したから、切株も小さく、根張りもさほど頑固ではない。クマザサは葉に見事な覆輪が現れた株もあって、志おありのかたが見立てて丹精なされば面白いものなのかもしれないが、私には邪魔である。

 「雑草という名の植物はない」などと声高におっしゃる愛好家をたまに視かける。お説ごもっともではあるが、園芸分野にも農業分野にも、「雑草」という概念・定義はしっかりとある。
 小豆畑にどうした加減か、稲が一本芽吹いて育ってきてしまったとする。小豆栽培農家にとってその稲は雑草である。逆もまた真。当然だ。

 東側は居心地がよろしいのか、私の作業に慌てた昆虫たちが、盛んに飛ぶ。跳ぶ。翔ぶ。コイツは臭いヤツ、コイツは刺されると痒いヤツ。悪ガキ時分の教養が役立つ。今朝はキチキチバッタの仔が多かった。身の丈五ミリしかないくせに、スリムで小顔細面の親とそっくりな恰好で、非常時到来とばかり懸命に跳び逃げる姿は、思わず手を停めて観送るほどおかしかった。
 たった一匹、ヤモリがブロック塀を這って、逃げていった。全身を大仰にくねらせての猛ダッシュといった感じ。筋肉のどういうメカニズムで、あれほど全身を同時にくねらせることができるのだろうか。ロートレックの画に登場する「骨なしバランタン氏」は、ムーランルージュでどんなふうに踊っていたものだろうかと、ふと連想した。
 ヤモリは私の暮しの味方と思っているから、室内で視かけても追い払ったりしたことはない。クモ類もさようだ。が、拙宅周囲に限って申せば、ヤモリもクモも、個体数は急激に減ってきている。

 本日の戦果。明朝はこの山が、三分の二になっていよう。これでガスメーターの検針に、裏手まで通っていたゞける。