一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

音が立派

坪内逍遥(1859 - 1935)

 文学には、音感やリズム感がことのほか大切だ。

 学生時分の正宗白鳥は、早稲田から歌舞伎座まで徒歩で、芝居を観にかよったという。たしか広津和郎も、麻布の親元から早稲田まで、歩いて通学したと書いていた。昔の学生は、じつによく歩いたようだ。
 芝居帰りの同級生たちで、逍遥先生を囲む茶話会があった。憎まれ口が身上の白鳥は、つい云ってしまった。
 「演劇改良なんかせずとも、団十郎菊五郎を観ていれば、それで好いと思います」
 しまった、と思った。シェークスピアを講義し、日ごろから演劇改良運動を唱える逍遥を前にして、いくらなんでも口が滑ったかと。
 ところが逍遥は「そりゃあそうだそうだ」と身を乗出して同意し、「たゞね、彼らには余命乏しく、後継者はない」と嘆いたという。逍遥先生は年少のみぎりから一貫して、たいした芝居好きだったと証言する文脈で披露された逸話だ。

 数年後、白鳥は読売新聞記者として、演劇時評の筆を執るようになる。辛口といえば聞えがよろしいが、まず悪口のオンパレードだったそうだ。
 団菊左の時代(団十郎菊五郎・左団次が三大名優と称された時代)が終って、次世代の役者に観るべきものがない。たゞし白鳥が心酔したのは団菊のみで、左団次については、なんであんなもんがといった口調だった。
 すっかり歌舞伎を観る気がしなくなったと悪態つきながら、そのくせ一方では「悪口云いながらも、私は不思議と芝居が好きだった」などと、ぬけぬけと回想してもいる。このあたりも往ったり来たりの、一筋縄ではゆかぬ白鳥流だ。

 さて逍遥訳シェークスピアだが、有名な割には今日読み返されない。上演台本としては無理でも、読物としては興味尽きぬし、教わることすこぶる多い。『ハムレット』の有名な「生きるべきか死ぬべきか」は、逍遥訳ではこうだ。
 ―― 存(ながら)ふる? 存(ながら)へぬ? それが疑問ぢゃ……
 原文は生きるか死ぬかよりは、このまゝでよいのか変えなきゃいけないのか、との意味合いが強いそうだが、逍遥訳はそれらの中間といった感じだ。

 開幕冒頭の場面。城壁上に現れた先王の亡霊を昨夜目撃した衛兵たちが、今夜はホレイショ―に確めさせようとする。
 衛1 しっ、だまらしめ、あれ、あそこへ現れました!
 衛2 おかくれあった先君をそのまゝのあの姿。
 衛1 そこもとは学者ぢゃほどに、言葉をかけて見さしめ。
 衛2 ホ―レーショ―殿、先君のお姿にそのまゝでござろうがの?
 ホレ いかにも。不思議ともまた怖しいとも、身の毛がよだちまする。
 かような台詞であれば、ミュージカル俳優なんぞより歌舞伎役者のほうが巧いに決ってる。端的に申せば、逍遥訳シェークスピアは西洋を場面とする歌舞伎劇だ。

 だがこゝで、洋の東西や時代の新旧を云おうとするのではない。問題は音感である。
 いつの頃だったか、ロンドンでの芸術交流プログラムで、英国人観客の前でシェークスピアの台詞を、原語と訳語とを並べ比べて聴かせるワークショップが催された。仕切ったのは英国人演出家で、日本語はひと言も理解しない。さて日本語台本としてなにを採用するかとなって、おもだった日本語訳なん作かを、日本人役者が演出家の前で朗読して聴かせた。ウン、それにしようと演出家が選んだのは、坪内逍遥訳だったそうだ。

 言語の表現力とは、伝達意図と意味内容と、用字用語と文法などがすべてではない。サウンドとしての言葉の力を度外視できない。
 時代推移とともに日本語の速度が増して、省略表現も豊富となった。記述であれば単位文字数当り、会話であれば単位時間当りに籠められる意味量が着実に増えてきた。が、それで日本語が豊かになったか、強い言語となったかと問われれば、にわかには判断しかねる。というより、かなりの不安を覚える。
 文章を朗々と音読する時代は去った。しかし黙読する読者の耳の奥では、言語が鳴っているのである。音感・リズム感なしには、読解も創作も成立しない。