一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

自己矛盾

黒田清輝(1866 - 1924)、『湖畔』(部分)

 ふいのことがあってこの数日、横光利一について思い出している。そんなつもりはなかったのだ。

 困るのである。残された時間に、一度は読んでみたい本や、もう一度読んでから死にたい本が、山積している。まだ読んだことないシェイクスピア作品がある。チェーホンテと名乗っていた時代(初期)のチェーホフも手付かずのままだ。ヘロドトスとツキディデスをもう一度読み直したい。跳びとびで済ませてきた『平家物語』をゆっくり通読したい。西鶴にも穴が開いている。
 横光利一はほんらい私の担当ではない。宇野浩二徳田秋声なら担当である。余生の読書にはユーモアも軽味もあるものを、たとえば尾崎一雄永井龍男梅崎春生を読んで過したいのである。ここで横光利一は、非常に困る。

 たとえて申すなら、黒田清輝の有名な『湖畔』が好きだ。モデルとなったご婦人にたいして、銀幕のスターに憧れるがごとくの想いを抱いている。ぜひともお会いしてみたい。司葉子さんや芦川いづみさんや加賀まりこさんに会いたいのと同じだ。
 黒田清輝には西洋人女性をモデルとした有名な裸婦画が何点もあるが、いずれも肌や髪に触れてみたくなる。吐息を嗅いでみたい。

安井曾太郎(1888 - 1955)『孔雀と女』

 そこへゆくと安井曾太郎の『孔雀と女』のモデルには、ちょいと手を出しかねる。安井といえば、近代日本の洋画家のうちではデッサンの力量が一番あったと云われる画家だ。ご婦人の描写に狂いがあるはずがない。
 けれどもカーテンは開けっぱなしのままで、窓の外は紳士淑女が散歩している庭か公園らしい。そんな部屋で全裸でくつろいでいるのは、なんぼなんでもおかしいじゃないか。いや、それよりなにより、そんな彼女のベッドに孔雀が昇ってくるなんて、どう考えたって普通じゃなかろう。

 画家は女性像もしくは孔雀像を、鑑賞者に届けたいわけじゃない。両者のアンサンブルを、さらには寝具やカーテンや窓外の風景まで含めた画面全体の、色や形のアンサンブルを届けたいのだ。
 そのうえモデル嬢のポーズも画面構図も、ルネッサンス以降ヨーロッパ絵画史において幾多の巨匠が描いてきた定型を踏襲している。淵源へと遡れば、神話的動機か宗教的動機へと辿りつくにちがいない。
 「論」が不可欠となる。うっかり手を伸ばしたり、ご婦人の吐息を嗅いだりしている場合ではないのである。

林武(1896 - 1975)、『妻の像』(部分)

 さらに進んで、失礼ながら私は、林武画伯の奥様にはお眼どおりしたくもない。賢くていらっしゃって、お考えもはっきりされた、万事に捌けたご性格とお見受けできるが、こんなにお顔が黄色くては困る。唇まで黄色くていらっしゃる。頬から顎へかけてだの、鼻の両脇だのが、これほど黒ぐろなさっていても困る。
 ますます「論」が不可欠になった。

 ところで、美術作品や工芸について考えあぐねたさいに、私が採るいつもの究極選択法がある。もし私に途方もない特権でもあって、いずれか一枚どれでも差しあげましょうと云ってもらえたら、さてどの作品を頂戴しようか。
 まず黒田清輝が落ちる。安井か林か、身を揉んでかなり真剣に迷う。安井の画集は数かず出版されてあることでもあるし、エエイッ、息を止め眼をつぶるようにして、林武をいただくことにする。
 つまり描かれた順と欲しい順とは、逆になる。画面内のモデル世界への憧れと欲しい順とも、ちょうど逆になる。

 変じゃないか。言行不一致ではないか。そのとおりである。
 もともと私は、温もりの感じられる風景画や静物画が好きなのである。稲刈り済んだ農村の納屋の藁屋根に西陽が差しているような画が好きなのである。さもなければ、坂本繁二郎が桐箱だの煉瓦だの石なんぞを描いた画が好きなのである。熊谷守一が率直気ままそうに描いた草木虫魚の小品が好きなのである。「論」から逃れたいのである。にもかかわらず、今パソコンに向う席から視まわすと……。
 美術品を身近に置く趣味も経済力もむろんないから、展覧会のおりにポスターを買ってパネルに収めたり、ポストカードを買って手札用の小額縁に収めたりしてあるが、今この席から視まわすと、眼に入るのはロイ・リキテンシュタインであり、ダリであり、デ・キリコであり、ジャコメッティである。しつこく何枚もあるのは、ベルナール・ビュッフェとロートレックである。「論」の悪魔的魅力がひしめき合っている。ほんらい私の担当と称べそうなのは、かろうじてロートレックただ一人だ。これは一体全体、いかなる事態であろうか。

 尾崎一雄を読んで過したい老人が、昔読んだ横光利一を懸命に思い出そうとしている。「論」からおさらばしようと念ずるのに、「論」に足を取られる。お二人は一歳違いに過ぎないが、私にとっては滑稽なる自己矛盾である。