一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

乗合馬車の喜劇

石野英夫:画。「とうよこ沿線」64号より無断切取りさせていただきました。

 横光利一の初期代表作『日輪』が、フローベール作品から刺激を受けた作品との指摘は古くからされていて、今では学界常識となっているのだろう。もう一つの例を、わたしは面白いと思っているのだが。

 『蠅』は田舎の村から町へ貨客を運ぶ、とある乗合馬車に起った顚末である。
 定刻近くなったが、馭者の姿はない。駅舎となっている茶店で饅頭が蒸しあがるのを待っているのだ。近くではセイロがさかんに湯気を噴き出している。
 町に仕事相手を待たせている紳士が、馬車の脇でやきもきしている。家族に会わねばならぬ中年婦人がおろおろしている。近くの雑木林からは、駆落ちカップルが様子を窺っている。追手の眼を警戒して、発車直前に乗込もうというのだ。

 定刻となった。馭者の姿はまだない。ようやく饅頭が蒸しあがった。馭者はふたつ取り、ひとつを頬張った。急ぐ気配もなく、悠然と食べた。もうひとつを入念に包んで、胴巻きに収めた。さて腹ごしらえはできた。ようやく馭者は茶店を出た。
 待ちわびた客たちは、われ先に乗込んだ。カップルは雑木林から走り出た。「おーい、待ってくれーい、やれやれ間に合った」と息せき切って駆けつけた男もあった。
 馭者は威厳めかして装備を改め、馬にひと声かけると、ヒュウッと振上げた鞭をピシリッと馬に当てた。それよりほんの直前、どこからかプーンと飛んで来た一匹の蝿が、馬の尻にポチッと停まった。蝿は馭者の鞭の音にも、馬の尻の筋肉の緊張にも、振られた尻尾による風にも動じることなく、尻に留まり続けた。

 遅れを取り戻そうとするかのように、乗合馬車は全速力で駆けた。ひどく揺れた。難所の峠越えに差しかかっても、いつもほど速度を落とさなかった。片側はそそり立つ岩壁、もう片側は底が見えぬほどの谷である。通い慣れた途で腕に覚えのある馭者は、自信満々で馬を励ました。
 と、谷側の車輪が小石を撥ね飛ばした。一瞬生じたかすかな窪みに、馬車が傾いた。ズズッと車輪が空回りした。さらに土を飛ばし、車輪が取られた。馭者は鞭を入れた。馬は白眼を剥いて脚を踏ん張り、血管を浮きあがらせて耐えようとした。が、馬車と貨客の重量には耐えるべくもない。見る見る傾き引きずられ、やがて馬も馬車も裏返しの姿勢で谷底へと落ちていった。
 目撃した者はひとりもない。ただ一匹の蝿が峠越えの道の中空に、なにごともなかったかのように舞っている。

 発表された大正十二年の読者からは、登場人物たちの俗物性を嗤う風刺小説と読まれたかもしれない。さらにその数か月後に発生した関東大震災に遭って、人智の及ばぬ運命的災厄という連想をもって読まれたかもしれない。
 今日では古び果てたかと申せば、そんなことはない。ブラックユーモア、ナンセンス喜劇など、数かずの現代芸術論的定義に意味づけられながら、面白い短篇であり続けている。

 ところで、兵役に服したり思想的煩悶に捉われたりした挙句に、師のフローベールに巡りあうをえたモーパッサンだから、とくにエリート的環境にあったわけでも、とびきり早い作家デビューだったわけでもない。出世作『脂肪の塊』は乗合馬車を舞台とした中篇小説だ。
 頃は普仏戦争。舞台はベルギー国境に近い北フランスの町だ。威勢よく出陣していった将兵が、尾羽うち枯らした小集団の敗残兵として、来る日も来る日も前線から引揚げてきては、パリの方角へと通過してゆく。この町にもプロシア軍が進駐して来るのは時間の問題だ。金を積めば、町から非戦闘地域へと脱出する乗合馬車に乗れる。

 とある日の乗合馬車発着駅。商人夫妻がやって来た。あこぎなワイン取引きなどで、金の亡者と悪評高い夫妻だ。工場主夫妻もやって来た。資産はとうにベルギーへと移してしまい、労働者を見捨てて夫妻して逃げ出すのだ。伯爵夫妻がやってきた。パリにあれば大した貴族でもないが、この町では名士面してきた夫妻だ。以上は王党派だ。名誉あるフランスが倒れては困ると思っている。
 修道尼が二人やって来た。非戦闘地域修道院へ移ろうというのだろう。裕福そうでもないが生真面目ではありそうな壮年の男が独りでやって来た。彼だけは共和派だ。今のフランス権力は一度倒れて、新しいフランスへと脱皮せねばと考えている。
 最後に色白でふくよかな躰つきの女性エリザベートが、旅行用バスケットを提げて、やはり独りでやってきた。娼婦館の女で、陰口好きな男客たちからはその肉体美を「脂肪の塊」と、愛称とも嘲笑ともつかぬ称ばれかたをしている。この十人が乗客だ。乗客たちは、ことに男たち全員は、エリザベートが何者かをよく知っていた。

 戦で路は荒れていた。天候も味方しなかった。馬車は思うように進まなかった。中継駅の町へはなかなか着かない。考え甘かった九人は疲労困憊し、空腹をきわめた。
 エリザベートは膝のバスケットから、パンとパテと水代りのワインを取出した。苦労人の彼女はもしもを考え、二日分の弁当を用意していたのである。彼女は一同の視線に気づかぬわけにはゆかなかった。
 「あのぅ奥様がた、こんなものでよろしければ、いかがですか?」
 初めこそ躊躇した淑女たちだったが、誘惑には抗えなかった。
 「失礼ですけれど、旦那さまがたもどうぞ」
 「せっかくのご好意をお断りするのも、失礼に当るというものでしょうな」
 エリザベートの弁当はすべて、乗合客の腹に収まった。

 夜更けて、ようやく中継町に着いた。プロシア軍がすでに駐留し、ホテルも接収していた。隊長の許可で、一同無事宿泊できた。
 さて翌朝、次の中継地へ向けて出発……のはずが、隊長から許可が降りない。一同虚しく、その街で一日を過さざるをえなかった。さて翌朝こそ出発……またも許可が降りない。交渉術や語学に達者な男たちが、プロシア兵から情報を仕入れた。どうやら隊長がエリザベートをひと眼で気に入ってしまったらしい。エリザベートが隊長のお相手をしてくれれば、出発させてくれるらしい。
 「ご無理でしょうがエリザベートさん、ここはひとつ、いかがでしょうか……」
 「だってあのかた、普段から……ねぇ」
 「あなたの愛国心に訴えたい。あなたの勇気は、フランスを救うのですぞ」
 エリザベートは生贄になった。馬車は出発した。エリザベートに話しかける者はひとりもなかった。一同今度は、弁当を用意していた。エリザベートに勧める者はひとりもなかった。ご夫人がたは、汚らわしいものでも視るような眼で、エリザベートを横目に盗み視た。馬車の隅に身を竦めるようにして、エリザベートはすすり泣いている。

 『日輪』を着想するにフローベールを参照した横光が、『蠅』を着想するにモーパッサン『脂肪の塊』を参照しなかったはずはないと、私は思う。そして枚数においても、背景の社会性・時局性においても、『脂肪の塊』よりはるかに規模の小粒な『蠅』において、横光が挑戦したかったことはなんだったろうかと思うのである。
 後年の名短篇を彷彿とさせるモーパッサンの辛味は、ここでも存分に利いている。だがエリザベートがすすり泣くのにたいして、横光の蝿は、なにごともなかったように崖の道の上空を舞っている。ドライという点では、横光は一歩を進めている。
 小説としていずれがでかしているか、達成しているかという問題ではない。より冷酷非情な喜劇性を示しえたかといった問題でもない。いや、さような尺度も有効かとは思うけれども、今はその問題ではない。
 現象を人間の問題として描いたモーパッサンと、人間を現象のごとくに捉えた横光、というようなことなのだが、ちょいと云いかたに窮する。もう少し実例が必要だ。