一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

ギリギリの抵抗



 他人事ではない気がしている。

 京都大学での滝川事件を境に、同大出身の俊英たちはファシズムの急速な膨張気配に対する危機感を深めた。昭和八年のことだ。東京では、日本共産党の理論的指導者の一部と目されていた佐野学・鍋山貞親の両名が、獄中にあって懺悔とも自己批判ともとれる転向声明を公表してしまい、それまで歯を食いしばって活動してきた全国の学生や勤労青年たちが、激しい動揺に見舞われた年である。
 中井正一を中心とする京都の俊英たちは、ファシズム監視と文化防衛とに目処を置いた同人雑誌『世界文化』を発行した。中井が発行していた『美・批評』の発展拡大版との位置づけだった。同人各個の専攻分野に関する、最新の海外情報を紹介し論考した。
 中井(美学)、久野収(哲学)、真下真一(哲学)、武谷三男(物理学)、和田洋一(ドイツ文学)ら十六人の同人のほか、同人外からの寄稿もあった。戦後それぞれの分野で著名となった人が多い。時節がらほぼ全員が、似ても似つかぬペンネ―ムを用いている。筆名誰だれがじつは誰だれかということは、今日すべて明らかになっている。

 飽くまでも学問の独立を尊重し、文化防衛を旨とする雑誌だった。たとえば日本共産党機関誌のような政府批判・軍部批判を旨としてはいない。京都の若手が採った戦術はもっと多様で柔軟だった。淀川長治が映画評を寄せたりもしている。といっても特色は、ヨーロッパの統一戦線ほかファシズムへの抵抗の実状を紹介した点などにあった。
 二年九か月、第三十四号まで刊行された。その間の日本ファシズムの膨張は凄まじく、たとえ文化情報誌の体裁を前面に出したところで、同人たちは治安維持法容疑で次つぎと検挙されていった。


 『世界文化』同人たちが、想定読者を知識青年層に限らず、一般庶民にまで拡大しようと企てたのが、週刊タブロイド新聞『土曜日』である。一同手分けして歩き回り、京都市内の喫茶店その他に置かれたという。欧米や中国の映画に関する記事も眼を惹くし、アンドレ・ジイドをはじめ反ファシズムの姿勢を示す文学者の紹介も特徴的だ。注目すべき社会現象の裏の闇についての、解りやすい解説もある。

 京都の若手たちの意図はこうだったろう。ファシズムの中枢・元凶に直接正対したのでは、国家権力と正面衝突してしまう。力をもって踏み潰されてしまう。ところで庶民がファシズムに足を盗られて巻込まれてしまう第一の原因は、視野の狭窄だ。情報の片寄りであり、世界の実状に対する無知だ。細部を知ることこそが抵抗力になる。自分らに今できるのは、より広い世界情報を提供することだ。そのためにこそ、各人の専攻研究分野が役立つ。
 時あたかも、数人の若者が下宿に集ってヒソヒソ噺をしただけで、官憲から眼をつけられた時代だ。その時代の息苦しい京都市内の光景を、後年野間宏は小説『暗い絵』に描いた。
 事態を明快にすべく、ここは乱暴に、薄っぺらく指標化してしまおう。京都の俊英たちによる実行は、非政治的・非暴力的にして文化防衛的・学問尊重的な、「知」による抵抗だった。

 抵抗の一次資料がここにある。が、私にはもはやこれらを活用するすべがない。どこかにこれら貴重資料を役立てられる読者があることを、切に願う。『復刻版 世界文化』『復刻版 土曜日』を古書肆に出す。
 活動当事者の一人和田洋一による、戦後になってからの回想文『灰色のユーモア――私の昭和史ノォト』は、わが若き日にはすでに伝説の名著扱いで、入手しにくい本だった。そうした状況から、他の関連文章をも増補するかたちで『私の昭和史――『世界文化』のころ』が出し直された。『灰色のユーモア』全文が再録されてある。両著とも手許にあるので、このさい古書肆に出す。
 さらに、同志社大学人文科学研究所編『戦時下抵抗の研究』(全二巻)がある。研究グループが対象を手分けして分担執筆した体裁で、思想の科学研究会による有名な『共同研究 転向』の小型版といったおもむきだ。『世界文化』グループのみならず、他の自由主義者たちやキリスト教信仰者たちによる、ファシズムへの抵抗の痕跡を丹念に掘起してある。このさい古書肆に出す。