一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

一次資料



 『批評』(復刻版)合本にて全6巻。原本は昭和14年8月創刊、山坂あって最終号は昭和20年2月発行。文芸批評の同人雑誌だ。復刻版刊行にさいして、総索引や解説を付して、歴史研究の一次資料たるの便宜が整えられた。
 「山坂あって」というのは、同人雑誌維持の苦労を味わった者であれば容易に想像がつくはずの、窮境やらゴタゴタによって、間遠になった時期もあるという意味だ。しかも窮屈な軍国主義下であり、戦時下である。同人各個の身の上にも身辺事情にも、苦境異変数えだしたら切りがあるまい。徴用された者も、病気療養した者もあったろう。姿を隠さねばならなかった者すらあったかもしれない。むしろよくぞここまで、この雑誌が発行され続けたものと、感嘆なきをえない。

 目次に眼を走らせると、創刊いきなり西村孝次、伊藤信吉とくる。山本健吉吉田健一と続く。D.H ロレンスやオスカー・ワイルド研究の泰斗に、みずから詩人にして日本近代詩人研究の第一人者。それに国文学古典の素養を現代文学批評に活かした有名批評家に、小説・翻訳・批評いずれにも熱烈な愛読者をもった西洋型文人と、まさしく多士済々だ。ただしいずれも「後年の」が頭に付く。戦後ながく活躍し、それぞれの分野で大家となった文人がたが、少壮気鋭三十歳代の学徒であり論客だったころの、なまの記録である。
 あの大家は若き日、しかも戦時下にあって、かような志を抱いていたのか。後年の著名な仕事の初期萌芽は、かような点に芽吹いたのか。今からは想像もつかぬ組合せだが、あの人とあの人とは、若き日には仲間だったのか……。興味は尽きない。

 当時を記憶する知友による回想談ではない。ましてや後学による論考なんぞではない。動かしがたく実在した、一次資料である。はるか後年の写真印刷技術によって再現された、新しい紙とインクによる刊行物ではあっても、文言と活字とからは、気鋭文人たちの気概が匂い立ってくるようだ。
 ここまで遡らねば駄目だと自分を叱咤して、身分不相応な刊行物に薄給の大半を注ぎこんでいた齢ごろが、私にもあった。宝の持ち腐れと嘲笑されることは、覚悟のうえだった。が、一次資料を参照しつつ根源的に語る仕事が、もはや自分にできるとは思えない。
 復刻版『批評』全巻を、古書肆に出す。


 『構想』(復刻版)全7冊に付録『「構想」と私』。原本は昭和14年10月創刊、最終号は昭和16年9月発行。
 目次を眺めると、中心人物としての埴谷雄高の姿が窺え、毎号の書き手陣には、山室静久保田正文佐々木基一の名が見える。当時はウジウジと考えてばかりいて、あまり書かぬ人だったと伝えられる平野謙は、同人名簿に名を連ねてはいるものの、記事は書評一篇と同人雑記一篇のみ。全号合せて三ページである。
 戦後文学運動の中心近くで貴重な役割を果すことになる論客たちの、十年前の姿だ。ニ十歳代後半から三十歳代前半の仕事である。
 「後年あれほどとなった人でも、若き日はこのていどだったんだ」
 「若いころすでに、こんなこと書いてたんだ、スゲーな」
 いずれも当っている。心ある今の若者に読んでもらえれば、勇気とも励みともなるにちがいない。

 『文学時標』(復刻版)。昭和21年1月から11月にかけて発行されたタブロイド紙全十三号を合本化した全一巻。雑誌『近代文学』『新日本文学』があいついで創刊されるのと時期を同じうして、タブロイド紙『文學時標』も発行された。
 第一号一面トップの「発刊のことば」は「文學時標社」の肩書で荒正人小田切秀雄佐々木基一の三人連名で書かれている。『近代文学』派のうちでも、日本共産党との共感度が強かった若手三人ということか。『近代文学』があっても『新日本文学』があっても、彼らにはまだまだ書きたいことが溜っていたということだろう。左翼系作家ながら共産党中央とはやや距離をとっていた宮本百合子中野重治らも記事を寄せている。

 『文學時標』の呼び物になったのは、そして今日なお考察の要を喪っていないのは、「文學検察」なる連載コラムだ。毎号先輩文人を取上げては吊し上げ、戦争責任を苛烈に追及した。分担執筆者も多数に及んだ。第一号では高村光太郎火野葦平が取上げられた。第二号では、中河與一と吉川英治が、第三号では芳賀檀と亀井勝一郎が取上げられた。
 戦争責任を追及せよとの世論を背景に日本浪漫派系が糾弾されたのは、世相のしからしむるところだが、武者小路実篤やら横光利一やら、時局に対して処置なしと手をこまねくほかなかった文人にまで追及の筆が及んだ事態は、今日なおよくよく考えてみるべきことだ。さらには岡崎義恵や和辻哲郎といった学究までもが取上げられた。

 戦争責任の芽を、社会機構として事実化した次元に留まらず、内面のカラクリとして潜在する次元にまで掘下げて確認しようとの企てには、追及の徹底という点で注目すべきものがある。吉本隆明の「転向論」「丸山真男論」「高村光太郎」他は、まだ十年もそれ以上も待たねば出てこない時である。
 しかしながら、人間は思想的存在である以前に動物的存在だ。もはや処置なしと断念して、せいぜい人さまにご迷惑を少なくおかけするよう努めて生きるしか手がない局面だって、あろうじゃないか。「筆は一本、箸は二本、衆寡敵せず」斎藤緑雨の名言は、今なお名言たり続けていよう。

 敗戦直後の埃っぽい烈風吹きすさぶなかで、志高き青年論客たちの筆はたしかに苛烈に過ぎ、書き過ぎだった。だがそれもこれも含めて、一次資料である。動かすわけにはゆかない。
 惜しむらくfは、その貴重資料を役立てる手立てが、もはや私にはない。『構想』『文学時標』ともに復刻版を、古書肆に出す。