一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

事の始まり



 民主主義という語を、いつどこで覚えたのだったろうか。

 小学五年六年時の担任教諭は、いかにも戦前の女子師範の節度謹厳を思わせる怖いオバチャン先生だった。私は自分の出来には余る教師運に恵まれた男と思っているが、まず最初がこの先生だ。あれこれの場面を今思い返しても、尊敬の念が湧く。四民平等も基本的人権も、この先生から伺ったのが最初だったにちがいない。なにしおう今では甲論乙駁半ばする「戦後民主主義教育」のまっただなかだった。

 巡り合せでつい入学してしまった私立中学は、文部省(当時)学習指導要領なんぞは大胆に踏み破って平気な、独自カリキュラムの学校だった。社会科科目には「日本史」「世界史」「地理」のほかに「倫理・社会」があって、民主主義の語はおそらくそこで取沙汰されたのだったかもしれない。記憶がない。
 解ろうが解るまいが手当り次第に覗いてみては、読みえた部類に数えてしまう、その年頃に通有の薄っぺらな読書癖のなかでも眼にしたことだろうが、これまた記憶がない。いかに自覚不足だったかということだ。
 中学三年だったか高校進級後だったか、『何でも見てやろう』を皮切りに小田実の著作を読み耽るに及んで、民主主義という語について初めて考えてみたのではなかったろうか。しかしそれも、ぼんやり考えてみただけのことであって、なんら定見を得たわけではなかった。
 人は偉くなって思想的存在となるわけではない。偉い人は偉い人なりに、凡夫は凡夫なりに独自思想を抱いた存在であると、常識的実例を見聞・目撃してはいても、ようやく理念としてはっきりさせてくれたのは、高校末尾ころに出逢った久野収の著作によってだった。ずいぶん時間がかかったもんだ。

 一度だけ、久野収その人をこの眼で視たことがある。新宿駅構内および駅周辺に騒乱罪が適用された国際反戦デーの夜のことだ。三丁目交差点の伊勢丹から対角線の角あたりの路上だった。あっ久野さんがいる、と思った。その夜の一件はほかで書いたので今は措くが、一九六八年十月二十一日と日付が動かぬわけだから、受験浪人中の予備校生だった私が、すでに久野収を顔写真つきで知っていたことの証明になる。

 佐高信はそのころ、すでに久野収の弟子だったのだろう。慶應義塾の学生だった。久野収は当時、学習院大学でしか教鞭を執っていなかった。で、佐高さんは学習院の教室へモグりに通った。講義教室でいく度出席をとっても、該当しない学生が一人ある。「君は?」「じつは……」という次第となり、そうなれば毒食わば皿で「講義教室だけでなくゼミにも出席させてください」となったそうだ。学習院大学の久野ゼミには、慶應義塾の学生が一名、在籍していたのである。
 私も大学内をそうとう勝手に遊び歩いた学生だったけれども、日本文学専攻の身で美術史・哲学・英文・独文・演劇と、せいぜいがところ文学部の塀の内にあって学科の垣根を越えて歩いたに過ぎない。池田弥三郎を聴きに慶應義塾へ、唐木順三平野謙を聴きに明治へ、佐々木基一を聴きに中央へなどとは、思ってみることすらなかった。
 佐高さんは私より四歳年長でいらっしゃる。さすがにお仕事量は減ったろうが、今もなお信頼に足る少数の評論家のお一人だ。初めから志が段違いだったとは、わが身に引き較べて私にははっきり断言できる。

 想い出もご恩もある哲学者ではあるが、久野収の著作の一部を古書肆に出す。だだし『30年代の思想家たち』その他を残す。
 鶴見俊輔との共著『現代日本の思想―その五つの渦』、鶴見俊輔藤田省三との共著『戦後日本の思想』を残す。
 対談・編著としては『思想のドラマトゥルギー』『回想の林達夫』を残す。
 また戦時中の京都における知的抵抗運動の実績たる雑誌『世界文化』、週刊新聞『土曜日』関連は残す。