一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

気合ダァ!


 年頭愕然。そして反省。そして決断。

 拙宅内の片づけに重大な障害となっているもののひとつは、わが生涯にもはや再読の機会は訪れまいと思える書籍類だ。場所を塞ぎ、移動を妨げ、よろづ片づけの邪魔となってある。
 中味を空にした箪笥だの、故障したままの家電だの、運び出したい家具は眼に余る。しかし出せない。まず床積み・階段積み・箱詰めの書籍・書類を、書架およびせいぜい書斎の床へと移動させなければならない。それには書架および書斎を空けなければならない。古書肆のお世話になるほかない。三日坊主に陥らぬよう、整理の模様をブログに記録してゆくとしよう。我ながら悪くない着想だった。
 で、昨年から「古書肆へ出す」シリーズを書くようになった。五十回近く書いたのではなかろうか。で、空き箪笥は、壊れ家電は動いただろうか。全然、である。
 こんな調子では手ぬるい。拍車を掛けねばならない。不要なものから順になんぞと、暢気なことを云っていては駄目である。もっとバリバリやらなければ。年頭にあたり、己にネジを巻く気分となった。
 気合を入れるには、まず象徴的なものを出さねば駄目だ。いくらなんでも多岐はまさかアレは出すまいと、知友であれば予想するだろうところにまで、手を着けてゆかねばならない。

 十代の末ごろ、雑誌『近代文学』の批評家たちの文章に接したのがきっかけで、文芸批評を読むようになった。小林秀雄唐木順三も、まだ読んでないころだ。『近代文学』創刊同人七人衆の出逢いの経緯についても、やがて知った。旧制第八高校時代からの仲間だった本多秋五平野謙が、「プロレタリア科学研究所」という研究機関で山室静を知った。また青年が三人寄ってなにやらコソコソしているだけで官憲に眼を着けられたという窮屈な時局に、下宿で密かに読書会を続けていた荒正人佐々木基一小田切秀雄の三人組があった。双方の知人だった埴谷雄高が、前の三人と後の三人とを結びつけた。さしづめ埴谷は、砂時計の細い胴部分に位置していたわけだ。
 難解をもって聞える未完長篇『死霊』の作者だが、平易な日本語で著されたエッセイ・回想文・追悼文・対談録などでは、スバ抜けた記憶力と説得力とが遺憾なく発揮されていつも愉しく、多くを教えられた。

 その埴谷雄高の評論集・紀行文・追悼文集・対談録の大半を、今回古書肆に出す。戦時下の昭和十九年に宇田川嘉彦の筆名で刊行された『フランドル画家論抄』も出す。これは知る人ぞ知る刊行物だろう。
 『死霊』と正面から相撲をとった川西政明の『謎解き「死霊」論』も出す。埴谷に果敢に食いさがった樋口覚との対談『生老病死』も出す。雑誌『ユリイカ埴谷雄高特集号と『群像』の埴谷雄高追悼特集号も出す。

 『死霊』全巻は残す。いまだ定見をもつに至ってない。短詞集『不合理ゆえに吾信ず』と、短篇集『虚空』『闇の中の黒い馬』とを残す。
 外国文学を論じた出色エッセイが収録される『影絵の世界』を残す。『埴谷雄高ドストエフスキイ全論集』も残す。
 談話録としては、吉本隆明・秋山 駿 の両名を聞き手とした『思索的渇望の世界』を残す。また『埴谷雄高独白「死霊」の世界』を残す。最晩年に埴谷邸に通い詰めた NHK スタッフにより収録され、五夜連続で放送された番組の文字化である。話し相手はいっさい登場しない独白体裁を採っていたが、ほんの一度か二度だけ、画面の外から返答のような相槌のような声が聞えた。おそらくは、戦後文芸出版史にあっての名編集長のひとり寺田博の声だったかと思う。
 雑誌『近代文学』の同志や戦後派作家たちによる埴谷論はまだ処分の順序ではないが、それ以外の著者によるものとしては、白川正芳埴谷雄高論全集成』を残す。