一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

ガラスの粉

水上 勉(1919 - 2004)

 昭和二十年八月十五日の正午ころ、水上勉青年は晴れわたった若狭湾の眺望が眼下いっぱいに開ける峠のいただきで、石地蔵の脇に腰を降して、弁当の握り飯を頬張っていた。

 村内にチブス罹患者が出た。当村への疎開者の妻だった。疎開してきて間もなく、夫は召集され、妻と子どもが残されていた。応召した夫は水上青年の友人で、疎開の仲立ちをしたいきさつもあることから、水上青年は急遽職場への欠勤連絡をして、自分で責任を取るしかなかった。
 感染症に対応できる病院は四里離れた小浜にしかない。列車はつねにすし詰めで、移動理由その他を明らかにしなければ切符を売ってもらえぬ状況だった。病院で証明書をもらって駅へ提出した。しかし伝染病患者を乗せるわけにはゆかぬとかで、切符を売ってはもらえなかった。水上青年と大工職の父とで、戸板に乗せた患者をリヤカーに固定させて、小浜まで運ぶほかなかった。

 若狭湾リアス式海岸で、いくつかの岬と入江が続き、いくつもの磯と潮だまりとが繰返される。海岸近くを走る鉄道はトンネルをくぐるが、リヤカーは峠越えの坂道をいく度も登り降りした。
 「ツトムゥ、ここいらにしようかい」
 地蔵さまの峠で休んだ。岩場の湧水で手拭いをゆるく絞り、汗みずくの患者の躰を拭いた。顔をまっ赤に上気させて玉の汗を噴き続ける患者に、ほとんど意識はなかった。石地蔵の脇に腰を降して、二人は麦飯の結びを頬張った。
 父と息子は、天皇詔勅を聴かなかった。終戦のことなど知らなかった。

 後年大作家となった青年は、こう書き残した。
 〈「日本のいちばん長い日」とか「歴史的な日」とかいうのは、観念というものであって、人は「歴史的な日」などを生きるものではない。人は、いつも怨憎愛楽の人事の日々の、具体を生きる。〉
 『寺泊』(筑摩書房、1977)に収録された『リヤカーを曳いて』という作品に回想されてある。


 この逸話を、私は水上勉の肉声で聴いている。新潮社主催の文化講演会だったと記憶する。年月日は確定しがたいが、上記の文章が書かれた前後と推測される。新潮社の PR 雑誌『波』と同社主催の月例講演会に注目して、毎回のように新宿紀伊国屋ホールへと足繁く通っていた時分だ。
 俯き加減の眼もとに長い前髪が再三降りかかる。そのたびに、掻きむしるようなやや荒っぽい手つきで掻きあげ、恥らい気味の謙虚な風情で語り続ける。独特な風格を漂わせて、美しい説得力がある語り口調だった。

 その日の天候と若狭の海とを、文章では別の表現となっているが、口頭ではこうおっしゃった。
 「海面にガラスの粉を撒き散らしたように、キラキラキラーっとしてですねえ~」
 あっ、小説家の言葉だ、と客席の私は直覚した。今ならとうてい感じ取れまい。私の耳もまだ若く、いくらか感度があった時分のことだ。
 これが若狭言葉というものなのだろうか。その地の方言について、私はなにも知らない。私がどうにか使いこなせる日本語では、「がらすの」となる。作家は澄んだ低音で「らすのな」と発音なさった。圧倒されるほどに、ものすごい現実味だった。

 実例を示して論証するとなれば、とんでもなく長ながしい論文を書かねばならぬから、いっさい割愛するけれども(というか尻尾を巻いて退散するけれども)、『五番町夕霧楼』だって『越前竹人形』だって、いや『飢餓海峡』ですらが、つまりは「らすのな」の美意識に支えられてあって、それを感じ取れなければ、この作家に近づけないのではあるまいか。国民的ベストセラー作家という平凡月並な読みかたより先へは進めないのではあるまいか。
 若造が、ずいぶん背伸びした、生意気な直覚をしたもんだが、今考え直してみても、さほど遠く外してはいない気がする。多くのベストセラー小説に眩惑されながらも、かろうじて「ガラスの粉」を聴きとって記憶した若き日の自分を、ほんの少し認めてやってもいいような気がしている。