一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

インドネシア


 ふと思い出して、読み返したくなることがきっとあろう。が、読み通す体力はあるまい。古書肆のお手に委ねることになろう。

 プラムディヤ・アナンタ・トゥールはインドネシア文学の第一世代を代表する作家た。年代的には、安部公房吉行淳之介三島由紀夫吉本隆明らと同世代だ。
 オランダによる植民地支配の三百四十年間、日本陸軍による統制の三年半を通じて、インドネシア人の自立心・向上心・向学心はすべからく頭打ちにされ、世界に窓を開く文学など育ちようがなかった。
 オランダを追払ってくれた恩人かと一瞬は見えたのに、新たな支配者に過ぎなかった幻滅の日本が敗戦により撤退。当然次なる支配者たらむと、列強が虎視眈々と狙ってくる。かつての宗主国オランダが、夢よもう一度と手を伸ばしてくる。太平洋の管理経営は俺に任せよとばかりに、アメリカが接近してくる。隣国にして地縁深きは我らであろうと、オーストラリア(背後にイギリス)が介入してくる。このままでは、ふたたびいずれかの統治下に置かれて、搾取され続けるほかなくなる。六千余りの島と、二百数十の部族とからなり、大雑把に分類しても四十も五十もの言語をもつ国は、戦勝国列強により分割統治される公算も大きかった。
 さいわい、戦時中に現地民統治の手先とすべく日本軍が育てた、有能なインドネシア青年将校グループがあった。彼らがいち早く決起して、列強進出に先駆けて先手を打った。インドネシアの独立宣言は、一九四五年の八月十七日である。青年将校グループの一人だったスカルノが初代大統領の地位に就いた。以後オランダ相手の独立戦争期となるが、プラムディヤも活動青年のひとりで、オランダ軍から逮捕された経験もある。

 日本思想史ふうに申せば戦後革命である。新政権はオランダをもアメリカをもオーストラリアをも、警戒しなければならない。いきおい中国とのパイプが太くなっていった。国民の七割以上が敬虔なイスラム教徒であるインドネシアが、社会主義国家を標榜することはなかったが、この時期の知識人の言説には容共親中の考えが透けて見える場合が多い。プラムディヤはその時期の青年作家だった。
 一九六五年、インドネシア共産党との密接関係を疑われ、思想犯として逮捕される。左翼的知識人の代表と目され、見せしめ逮捕だったようだ。それが証拠には、彼が六五年問題での思想犯逮捕第一号であり、やがて順次釈放の年限がきてからも、彼の釈放は最後となった。十年以上の流刑地(ブル島)生活だった。
 一九六八年に就任したスハルト第二代大統領政権下では、プラムディヤ作品は危険思想作家の著作として、発禁処分とされた。外国では読まれていたようだが。

 代表作はブル島四部作と称ばれる大河長篇だ。『人間の大地』『すべての民族の子』『足跡』『ガラスの家』から成る。
 オランダ語新聞に発表された懸賞論文の受賞作が、現地人青年ミンケの作と知れて、物議をかもす。植民地の民にかように立派なオランダ語文章が書けるはずないというのだ。嫌がらせや中傷に見舞われ、彼の将来はいったん閉ざされる。農場主の娘の家庭教師として雇われた。オランダ人経営者は本国へ行ったきりだ。ニャイ(現地妻)が賢い女性で、ミンケを引立ててくれる。父の血を継いで金髪ミルク色肌の生徒は、ミンケを慕う。しかし情勢移って農場を畳んで帰国せねばならぬ事情になると、父と娘は帰国してゆき、現地妻は保障もなく放置される。
 勉強を続けてミンケは、自力で憧れのオランダへも行ってみる。そこは彼の向学心・向上心が満たされる土地ではなかった。オランダから失意の帰国をしたミンケを待っていたインドネシアの現実とは?
 原住民部族長の王子ミンケの生涯を辿りながら、背景にインドネシア近代史の実情と経緯とを浮びあがらせた巨大パノラマである。ジャワ島にまで流れて行っていた日本女性たち、いわゆる「唐行きさん」たちの暮しぶりなども登場する。

 時間軸に沿って一定方向にのみ運ばれて行く物語進行に、現代の小説読者はやや物足りぬ印象を抱くかもしれない。水平方向への絵巻物的展開だけでなく、表も裏も高さも奥行もある立体構造としての世界を、丸ごと描き出す技法は考えられなかったものだろうかと。
 だがこれを書き始めたプラムディヤの身は、ブル島の思想犯収容所にあって、タイプライターはおろか紙や筆記用具すら与えられていなかったのである。夜な夜な(かどうか知らぬが)車座になった収容者たちに語り続けられたのである。いわば二十世紀の口承文芸である。後年いくぶんか待遇改善されて、記録し直されたものだ。
 東アジア最大の文学作品と評する人もあった。ノーベル文学賞にもっとも近いアジア人作家と称ばれた時期もあった。むろん莫言高行健大江健三郎が受賞するよりも前の噺である。

 アフマッド・トハリは、私と同世代のインドネシア作家だ。プラムディヤ世代とは異なって、植民地統治への抵抗や独立戦争が直接に色濃く影を落した文学ではない。混乱期を過ぎてから青年期を過し、高等学校卒業後は大学でいくつかの学部を聴講してから新聞記者となり、故郷に帰ってイスラム教を支柱とする理想の教育を目指して私塾を営む暮しだという。
 主題や設定を観ても、世界一律の都市化現象に疑問符を打つ内容が眼に着く。『パルック村の踊り子』『夜明けの彗星(ほうきぼし)―― パルック村の踊り子・後日談』が代表作だろう。村社会にあって傑出した美貌と技量を讃えられた踊子スリンティルが、嘱望されてジャカルタへ出てはみたものの、さてその地で満足な活躍ができるか、幸福な日々を送れるか、という筋立てである。
 芸術も暮しも、土地に根づいた土俗の美意識に育まれてこそ存立しえるのであって、村社会から突出したようなスリンティルも結局は村へ戻らねばならぬのではなかろうか。切花はいかに美しくとも、園芸ではないという、古くて新しい芸術観問題である。むろん家系や人間関係を描きこんで、社会問題にも仕立ててはあるが。
 北海道に在住の山根しのぶさんという高志の翻訳家が、年月をかけてこの作家の諸作品を日本語訳してこられた。まことに多とすべき訳業で、愉しませていただいたけれども、さて私に、もう一度読み返す体力が残っているかと自問してみると、なんともおぼつかない。

 プラムディヤ・アナンタ・トゥールを出す。アフマッド・トハリも出す。その他いく人かのインドネシア作家たちの翻訳作品も、このさい出す。ただしプラムディヤと同時代作家である、モフタル・ルビスだけは残す。事情はいずれ。