一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

雨上り行列

 

 正午までに雨は上ると、天気予報は告げている。伊豆諸島沖を通過する台風が、遠ざかってゆくそうだ。しかしみすみす時間の無駄もできないから、出かける。

 銀行 ATM の前には行列ができている。晦日だ。いよいよ支払いが待ったなしだとか、今日中に手形を落さぬと会社の一大事だとか、綱渡りの渡世に眼が血走ったかたも世にはおいでなのだろう。
 駅前にも行列が。人ではなく街路樹のヤマボウシだ。早咲きのひと株と遅咲きのふた株だ。

 五月も末日となって、池袋東武百貨店にて、慌てて進物の手配だ。早期申込み割引だの送料サービスだのの特典期間だ。
 進物といったところで、社会生活がほとんどなくなった身には、無沙汰挨拶の必要はほとんどない。遠方の従兄弟たちと、なにくれとなくご指導いただいているホームドクターだけだ。往年の三分の一かそれ以下に過ぎない。
 この程度なら、ネット注文で済ませたほうが賢明だ。システムは整備されてあって、私でも手続きできそうだ。が、承知のうえで、百貨店の特設催物会場なる処へ出かけてゆく。先般送付されてきたカタログを信用しないわけではないけれども、陳列されてある商品サンプルを肉眼で観て廻りたいのだ。自分にとっての社会勉強の機会とも思ってきた。

 商品確認を了えて、さて申込みカウンターへ。順番待ちの整理券発券機へ向おうとしたら、店員さんから呼び止められた。「すぐにうけたまわれます」とのことだ。
 小雨を押して朝から出かけて来たご利益だ。いつもの私時間で来ようものなら、五十分から一時間半待ちである。整理券を取ってから他の用足しに廻ったり、待合所のパイプ椅子で読書時間を過したりするのつねだった。
 いや待てよ。特設催物会場まで足を運ぶ人口が、急速に減ってきているのかもしれない。ネット注文が常識となっているのかもしれない。取残された旧弊な一部顧客のために、わざわざ会場と人材を投じて、対面受注を続けているのかもしれない。つまり私は、百貨店にとってはお荷物顧客なのかもしれない。

 ともあれ注文を滞りなく済ませて、ロータリーの中州に設けられた喫煙所にて一服する。視まわすと、まだ加熱式より紙巻派のほうがやや多い。さらに視まわすと、東にも西にもビルのどてっぱらに巨大な画面が切られてあって、宣伝やら告知やらの色鮮やかな映像が途切れることなく映し出されている。
 かつての池袋駅前といえば、百貨店と銀行と証券会社の看板が目白押しだった。今はローン金融と日本語学校と大型洋品店の看板がやたらと眼に着く。日本語を習得したい外国人さんがそんなに多いのだろうか。利息を払ってでも金を借りたい人がそんなに多いのだろうか。大銀行の支店は、すべて引越してしまった。駅前で商売する必要のない業種となったそうだ。


 いますぐ池袋で足さねばならぬ用事もないし、古書往来座さんはまだ開店前だし、ジュンク堂三省堂に寄ろうものなら、気の迷いが生じて衝動買いの陥穽にはまりかねないから、ひとまずはタカセコーヒーサロンへ。
 アイス珈琲に、渋皮マロンデニッシュとラムレーズンパン。大粒の栗と薄皮パンにはち切れそうなたっぷりレーズンだ。私にとってはすこぶる豪華な朝食である。もう正午近いから、世間ではブランチと称ぶのだろうか。なんだっ、その弘法サンスクリットみたいな合成語は。実在する英単語ではあるらしいが、好きになれない。ブランチというのは、枝分れのことだが、スペルが異なるらしい。

 だが待てよ。江戸時代のいつごろかまで、日本人は原則一日二食生活だった。さればこそ、まずひと仕事してから朝食を摂るという次第で、「朝飯前」の語もある。
 十九世紀末のイギリスの学生スラングアメリカへもカナダへも伝わったというから、ブランチより「朝飯」のほうが古い。

 幻の黒澤映画の一件について聴いたことがある。黒澤明橋本忍の共同脚本がほぼ完成して、これで行けるゾと思ったご両所には、気懸りの種がひとつだけ残っていた。物語上たいへん重要な一日で、娘だか妻だかが用意した朝食を喫してから侍が覚悟の登城をする場面があった。が、その時代、日本人が一日二食だったか、すでに三食の習慣があったか。つまり一日三食の習慣が江戸時代のいつごろ普及定着したものか、百方手を尽して調べてみても、そこが判らない。時代考証上の嘘が気に入らぬ点では、ご両所の思いは一致していた。やむなくその企画は、オシャカになったという。
 自伝回想録の一挿話に過ぎぬが、たいへん好い噺だと感じ入ったものだった。

 さてタカセコーヒーサロンでは、わが豪華朝食を喫しながら、もはや用済みとなったカタログを眺める。わずかばかりの注文しかできない顧客に、毎年豪華カタログが送付されてくる。面目ない気分だ。
 いただいておいて難癖をつけるわけじゃないが、大百貨店の腕っこき宣伝部が、一流広告代理店と打合せた企てだろうに、毎年のことながら、見映えの地味な表紙デザインだ。中味があまりに賑やか過ぎる商品写真の連続だから、せめてそれらを抑え込むべく、落着いた表紙をとの意図には共感するけれども、こうまで老人向けを意識する必要があるのだろうか。制作サイドにおける、老人の定義がやいかに? と、老人の一人は感じるのである。