一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

雌雄異株



 駅前神社の境内は、時あたかも紅葉の真盛りである。

 紅葉といっても、陽を浴びて黄金色に輝く公孫樹が主役だ。大鳥居を入ってすぐの外宮にも、石段を五段ほど上った内宮にも、公孫樹の巨木が複数株づつある。紅や茶に色づく落葉樹はあまりない。桜や楓類はほんのいく株かに過ぎず、いずれも巨木とは称びがたい。しかも境内というよりは宮司さんご一家のお住い近くに、あるいは通行人へのサービスのごとく往来に面して、いずれも中型のいく株かがあるのみだ。関東平野の落葉樹の象徴とも申すべき欅(ケヤキ)の巨木は、この境内にはない。
 境内の巨木といえば、公孫樹のほかには樟(クスノキ)と樫や椎の仲間たちである。団栗を降らせることはあっても、紅葉はしない。この季節となっても、外見は青あおと元気だ。ほかには椿だの夏蜜柑だの、その種にあっては大樹かもしれぬが、境内にあっては中型程度の植込みに過ぎない。しかも紅葉しない樹種ばかりだ。


 大鳥居をくぐって、オヤッと思った。気づいてみれば当然ながら、あたりの地面に銀杏の実がまばらに転がっている。鳥居脇に立つのは雄の樹だった記憶があったのだが……。すぐ奥には山縣有朋筆跡による日露戦争の石碑があって、それを挟んでより巨きな公孫樹がもうひと株立っている。そちらが雌の樹だった。巨木同士は上空では枝先が交差するほどに隣接していて、風媒にはもってこいの間柄のようだ。果せるかな、奥へ進むと、雌の樹の根周りにはまるで敷き詰められたかのように、大量の落果銀杏が地面を覆っていた。だれか箒か熊手かでサササッと集めてしまわないのだろうか。大収穫だろうに。

 無知な幼稚園児だったか小学一年生だったかは、山のように拾い集めては境内隅の蹲踞(つくばい)に放りこみ、手でゴシゴシ洗いながら、傷んだのや潰れかけて果肉のはみ出たのを選り分けた。得意になって戦果を持ち帰り、母親に披露した。さぞや褒められるだろうと思いきや、こっぴどくどやしつけられた。その夜、両手は痒いを通り越して痛いほどに腫れあがり、発熱までしてしまった。たしか翌日は寝込んだんだったと思う。
 しかし後から思い返すと、母は銀杏を拾うなとは云わなかった。拾うなら火箸か炭挟みを使えと云った。

 公孫樹は珍しい雌雄異株(しゆういしゅ)樹木である。雌の樹と雄の樹とがあって、両株が付近になければ実を結ばない。銀杏の実は得がたい食材ではあるものの、落果が踏みにじられたりしようものなら悪臭を放つ。そうした迷惑をこうむらぬように、並木や公園などの街路樹には、雄の樹だけを用いる配慮がなされてある。
 都市部にあっては、神社仏閣や富裕豪邸の庭木など、配慮以前からある樹や配慮を必要とせぬ樹だけが、銀杏の実を着ける。
 武蔵野大学三鷹キャンパスで十一年ほど仕事をさせていただいたが、同大学名物の公孫樹並木は文字どおり黄金色に輝いて、毎年この季節には息を呑んで歩を停めたものだった。古くからの学園であり、宗教施設でもあった場所だ。創立以前から武蔵野に育っていた自然木を、学園設計に採り込んだものだったろう。大量の銀杏が降った。いくら掃除したところで敷石に挟まったり塀の隅に隠れたりで、とうてい取り切れるものではなく、この時期のメインストリートはつねに臭かった。むろん懐かしき悪臭である。

 内宮へ上ってみると、そこにも公孫樹の巨木はあるのに、銀杏の実は一果も落ちていない。本殿・拝殿のすぐ前ということもあって、丹念にお掃除なされているのだろう。
 そこへゆくと外宮のほうは、日ごろから近隣の信仰心篤いかたがたが入替りやって来られて、いわば有志が掃き掃除しておられる。収穫物についても、持帰って苦しうないというような、暗黙の了解でもあるのだろうか。
 私が退出するとき、入違いに大鳥居をくぐった中年のご婦人があった。鳥居の足元にしゃがんで、取出したビニール袋を裏返して手に被せ、手袋のようにして拾い始めた。もっと奥の雌樹の根かたには、拾いきれぬほど落ちてますよと、教えてさしあげたい気が一瞬起きた。が、思い留まって、視て視ぬ振りをした。拾いながらご自分で発見なさったり、驚いたりなさったほうが、なん倍も愉しかろう。

 「雌の樹と雄の樹と云ったって、銀杏が生ってみなけりゃ判らないじゃないの。ほかの季節には、見分けつかないわけ?」
 「簡単さ。葉っぱを上下逆さに置いて眺めればいいんだ。ほらね……」
 女の子(左)はスカートを履いてる。男の子(右)は袴を履いてる。