一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

老いの頑張り

 

 とんだもらい事故により、花盛りだった老桜樹の地上部が、アッという間に姿を消して、ふた月になる。あと処理については、なんら進展していない。

 つい今しがたまで枝葉と花とに水分・養分をせっせと送っていた根は、長年の習慣を止めようとはしない。節ぶしから盛んにひこばえの芽を吹いてくる。隙あらばいずこからでもという感じで、勢い盛んな雑草のごとくに、草叢の様相を呈する。
 塀の修復もかなわず、通行人から丸見えの状態だから、放置するわけにもゆかず、芽吹いてくるものを丸刈りにしたのが、ひと月前だった。それからさらにひと月が経って、また繁ってきた。
 丸刈りは可哀相との気が起きた。盛りをとうに過ぎた老樹とはいえ、懸命に支えてきた地上部を突然喪ったのだ。水分・養分を届けるひこばえの少々くらいないでは、いかにも甲斐があるまい。年寄りが、突然事故死した子ども夫婦の忘れ形見である孫の面倒を看るようなもんだ。生命自然の理というものだろう。

 今回は、ほど好い間合いのひこばえを七本ほど残した。他は剪定鋏で伐っただけでなく、吹きかかった芽をも鋏の先で丁寧に摘んだ。今後の様子を観て、もしも幸いにして素性の良さそうなひこばえがあるようなら、三本くらいは残しても好いかという気になっている。
 たとえ伸ばしたところで、寿命をまっとうできる可能性はない。この地に生えたものの宿命だから、しかたない。老いの頑張りを見せる老根への、せめてもの挨拶といったところか。

 ところで、老いの頑張りと聴くと、老いてなお意気盛んといった好ましい語感を受取られるかたも多かろう。国語学的には、それで正しいのだろう。だがなぜか私一個の偏見にあっては、老いの一徹、年寄りの冷や水、分不相応な若造り、でしゃばり、頑固といった、揶揄を含んだ冷笑的な、はっきり申せば滑稽な語感を受取ってしまう。いかなる経緯でそうなったかは記憶にない。
 お若い友人たちやもっと下の若者たちと話しながら、ああ今自分は迷惑をかけていると感じることが、近年とみに増えてきている。己の社交下手に愛想が尽きるとの想いに襲われることすらある。ただしその自覚がストレスになるようでは、今度はこちらの心身に障ってしまう。面倒なところだ。
 もっとも、老いの入舞い(いりまい)ということもある。「老残の舞い、ひとさし舞ってしんぜましょう」なんぞと軽口を叩いて、うかうかと始めた当日記を図々しくも千百三十日ほど書き続けてきた身で、なにを殊勝気にと詰寄られれば、一言もないのだけれども。

 
 桜の切株に西接する、いまや孤立樹となった花梨の根元の草を、ついでにむしっておく。フキとヤブガラシだ。花梨と排水溝マンホールの間に立っていた万両のひと株も、桜と塀の話題に隠れてしまってはいるが、今回の事故一件のどさくさに巻込まれて、姿を消した。

 少し時間が余ったので、建屋北西角の今季二度目をむしっておく。西のフキ国と北のシダ・ドクダミ国との国境付近だ。
 かつてはネズミモチが繁って通り抜けを妨げていた。伐り倒して、手間をかけて根のいく本かを切断した甲斐あって、近年は切株からひこばえを吹くこともなくなった。そのことに安堵して油断していたら、一昨年昨年とオニアザミが根を降して、往生させられた。悪戦苦闘の甲斐あって、今はフキ軍とシダ・ドクダミ軍との、のどかな小競り合いだ。雑作もない。
 成果は枯草山へは運ばず、建屋がわに積んで、ここに新たな枯草山を造るつもりだ。土台回りの土の減りが目立つので、わずかでも足しにしておこうとの算段である。