一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

途を拓く



 建屋の東側。塀との間。裏手への通路である。

 両脇を拙宅と隣家とに挟まれた谷間のごとき通路が、南北に通る。季節にもよるが、大雑把に申せば正午を挟む一時間だけ陽射しがさんさんとなる通路だ。半日影を大好物とするドクダミ・シダ・ヤブガラシの基本三種が跋扈する。
 半日影をより得意とするのはシダで、願わくはもう少し陽射しが欲しいのがドクダミだ。したがって玄関から門扉までの飛石両脇は、ドクダミの独壇場で、塀だの建屋だの、物陰に隠れた地面はシダが優勢だ。ヤブガラシは場所を選ばない。

 この地帯には矮性の笹がいく株か勢力を伸ばしている。笹の種類についてはまったく無知だが、葉に覆輪があるところを観ると、クマザサの一種なのだろうか。矮性とはいえ笹である。他の草本類とは異なり、容易に引っこ抜くことはできない。そうとう頑固だし、力任せに無理をしようものなら、いくら軍手越しとはいっても、指を傷めかねない。
 地下茎を辿り、掘起すスコップ作業となるだろう。剪定鋏による根切りも必要となろう。本日の予定時間ではとうてい足りない。後日に回すしかない。

 まずは通路を確保することが優先だ。裏手には水道汲み上げモーター設備やガスメーターが設置されてある。検針担当者さんが毎月通る。歩行ラインの確保は重要だ。
 私にとってもこの通路は重要で、裏手への兵站線である。建屋北側と児童公園との境界塀一帯は、終日直射日光が避けられるのを好いことに、基本三種以外にさまざまな連中が群雄割拠している。セイタカアワダチソウのごとく、なりばかり大きくともちょいと引っぱれば根ごと抜けてくれるような、他愛ない連中ばかりではない。凶暴にして危険な奴もやって来る。
 昨年はどこからやって来たものかオニアザミの株が育ってしまって、手を焼いた。茎も葉も丈夫で鋭い棘に鎧われていて、目の粗い軍手などなんの役にも立たず、容赦なく手や指を攻撃してきた。工業用のゴム手袋ででもなければ、太刀打ちできまい。お上品な革手袋や、奥様がた向け台所洗剤用ゴム手袋ていどでは、ボロボロにされてしまう。
 今日ちょいと眺めたところでは、オニアザミははびこってないように見えたが、油断は禁物だ。得体の知れぬなにやら物騒そうな連中が、肩を並べている。つまり北側は難所なのだ。近ぢかそこへ、手を着けねばならない。道具や防具を用意して、繁く往ったり来たりしなければならない。すなわち本日の戦場たる東側は、難所北側への兵站路である。

 本日の地域には、前回より持越しの課題があった。ネズミモチの切株だ。さほど大きな株でもなく、地上部を伐り払ってのちはたいした新芽やひこばえを吹いてくることもなさそうだったので、放置してあった。しかしこのままではたくましく根を伸ばし、出先のどこかで支店営業を始めるにちがいない。このさい掘起すこととした。

 あらゆる樹木に共通するが、地上部は与しやすそうに見えても、根ははるかに頑強だ。ブロック塀のコンクリート土台に進路を阻まれた根は土台に沿って、思いのほか遠くにまで伸びていた。掘り辿っていては、作業予定時間を大幅に超過してしまう。やむなく完掘りを断念し、ノコギリを登場させた。スコップで露わにした根が、ここから先は細くなってゆくというあたりで切断し、切株を掘出した。
 根の伸びゆくさきが、うまく絶命して土に還ってくれればよろしいが、意表を衝くどこかで頭をもたげることでもあれば、その時のことである。私がより長生きするしかない。

 予想を超える大穴が開いてしまった。冷蔵庫へととって返した。鶏肉と竹輪と油揚げの、期限切れ腐りかけ切れっぱしがある。今夏は暑気当りがひどく、万事に億劫で、通常の保存食調理も気乗りせぬままにズルズルと怠けてしまった。その残骸である。このさい冷蔵庫の掃除とばかりにすべて取出し、切株の穴に放り込んだ。完全乾燥に至っていた枯草山をぎゅうぎゅうに詰込み、土をかけた。
 切株だけでなく、小石や割れ鉢なども地中からだいぶ堀出したから、まだ地面が凹んでいる。さらに別の枯草山を運んで地表に伏せて盛上げ、じゃぶじゃぶとたっぷりの水をかけた。ダンゴムシとハサミムシのねぐらを、今日はだいぶ破壊した。コオロギのデートコースも、ずいぶん荒地にしてしまった。
 予定時間を超えて、正味一時間の作業となった。昨日葬儀だったという、学友加瀬君への追悼草むしりである。