一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

できたァ



 あまりにも懐かしい材料だ。それだけに、今いかに語ったらよろしいものか、判断に迷い、あんがい手こずった。

 来月上旬、とある市民公開講座で、安部公房についてお喋りする約束になっている。そのレジュメを用意した。実働を申せば二夜で仕上げた。が、お約束したのは四か月も前で、この間つねに頭の隅に引っかかっていて、ああも考えこうも考えしてきた。語る順序・展開についても、最終案は初案とはずいぶん変った。
 レジュメといっても私の場合、要約でも参照資料の明示でもない。項目書き、いわば目次に過ぎない。私自身のための心憶えであり、噺が脱線につぐ脱線を重ねた場合に、本線へと立戻るための道しるべである。教員だった時分に、その日の講義概要の項目だけを箇条書きに板書してから語り始めた習慣を、そのまま紙に写したようなもんだ。ほんのメモていどのものだった。

 ところが大学と世間とは違う。とある公開講座で、来場者による講座後のアンケートを見せてくださったことがあった。感想のなかにお一人、レジュメが簡略過ぎるとのお叱りがあった。「家へ帰ってから思い出したり復習するのが楽しみなのに、これじゃあ資料にならんじゃないか」というわけである。
 カルチャースクールを担当した別の機会には、事前の打合せ段階に事務官がかよう教えてくださった。「受講者はお土産を喜びます。レジュメやら資料やら、関連する宣伝チラシの類まで、大切にお持帰りくださって、家で眺めたり仕分けたりなさるんです」と。
 なるほど、それで思い出した。親しい外国文学教授とコンビを組んで、隔月でトークライブを続けた時代があった。彼は関連図書の宣伝パンフレットやら、文学館の展示チラシやら割引券やら、じつに行届いたお土産を来場者に配っていた。それに引換え私は、なんのサービスもしない無愛想な弁士だった。
 思えば私だって芝居を観るさいの幕間では、ロビーの隅のラックや小机に処狭しと並べられた他劇団や他劇場での公演チラシから、眼を惹くものを摘んで帰るではないか。おそらく観には出掛けまいなと思われるものでも、演目や演出家や出演役者に興味を惹かれれば、ついいただいて帰るではないか。
 それやこれやのことがあって、ペラ一枚の目次書きを卒業して、いくらかの情報を盛込んだレジュメを工夫するようになった。かといって、喋りのネタバレになってしまっては、ご来場者だって興醒めだろう。なにごとも加減・按配ではあるけれども。


 安部公房といえば、わが若き日々には仲間たちとさんざん語り合った作家の一人だ。その反動だったろうか、ある時期から語る気を失って、いっこうに採りあげることがなくなった作家の筆頭でもある。作品自体も作風確立以後は、手を換え品を換え意匠の工夫はあっても、またァ安部先生ったら、アベコウボウしちゃってェ、という再生産過程に入っていったと思える。見事に達成し、いったんは役割を了えた作家とも見えた。
 しかし時代は移った。安部公房が次つぎ新作を書きおろしていた同時代を知らぬ世代の読者がたが作品を読み続け、またこれから読んでみようかという現代に、水先案内と申してはおこがましいが、なんらかの動機づけもしくは励ましとして、私が語れることはなんだろうか。途切れとぎれの記憶断片を繕いながらも、はたと考え込んでしまった。

 主催者さまをお待たせするわけにもゆかない。とにもかくにもレジュメはできた。おそらくは、果すべき役割に十分ではない。しかたがない。才能の限界であり、老化の実情である。