一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

シャン!

桜はさっぱりと調髪完了。花梨は只今散髪中。

 一昨日、植木職の親方に入っていたゞいた。昨日は曇天で、一時雨も降るとの天気予報だったので休み。本日はからりと晴れあがり、下草処理も含めて、すべて完了の予定だ。お若い衆との二人三脚で、まことにお見事な手際だ。明日からまた空模様が怪しくなるとのこと。まさにこゝしかないという、絶好の一日。

 年に一度、親方に入っていたゞくたびに、恥入ることがふたつある。
 ひとつは、草引き・下草刈りがまったくできていないことだ。樹の根元周りを埋め尽すフキ、ヤブガラシ、その他の下草類、老樹の幹の小さな節からも年々吹きだすひこばえなど、ヤル気さえあれば、素人にも始末できぬではない作業だ。にもかゝわらず処理できていない。
 時間が足りず、手が回らないというのが私の気分。だが客観的に眺めれば、私のヤル気が不足しているにちがいない。

 「そんなことにまでお手をわずらわせて、申しわけございません」
 「いやぁ、だからこそアタシらの仕事があるんで。仕事を奪わんでください」
 毎年、親方は笑ってくださる。が、汗顔の至りである。

 恥かしきことのもうひとつは、お接待がなにもできぬことだ。
 母が元気だった時分には、植木職のみならず大工だろうが電気工だろうが、職人さんが入る日の十時三時には麦茶が出せた。ごく濃いめに沸した麦茶を大ヤカン(ほれ、昔ラグビーの試合で魔法の水と称したやつ)にたっぷり入れ、拳大ほどもあるデカイ氷をいくつも放り込んだ。職人さんがたが作業しているあいだも、片隅のヤカンの表面からは水滴が消えなかった。

 母が床に着くようになって、習慣はいゝ加減になった。母歿して、私が父の介護に忙殺される頃には、習慣はまったく消滅した。二十年ぶりに今、無理やり復活させようとしたところで、ペットボトルに紙コップ……ではねェ。
 だいいちお若い衆は休憩時に、自販機の缶入りクリームソーダを飲んでいらっしゃる。

 陽気が好くなってくると、動きやすい気分になるのは、だれしものこと。大手不動産・建築会社の営業さんが、二社も立寄られた。ご両名ともむろん初対面ではない。しばらくぶりでこちらを通ったのでちょいとご挨拶、などとおっしゃって。
 道路拡幅計画の用地買収がだいぶ進んで、ご近所に金網空地がめっきり増えましたが、そろそろお宅もいかゞでしょう、というわけだ。
 「ご覧のとおり、今日は親方に桜の面倒を看ていたゞいてましてね」
 怪訝な顔をされてしまった。お一人なんぞ「えっ、桜、ありましたっけ」とのご返事。夢中でお仕事の若者の眼には、入らないのだろう。お二人ともに、私の申しあげよう(台詞)は通じなかった。

 東京都が勝手に道路用地と決定してしまった土地に、拙宅の老樹が立っている。それを玄人の職人さんが、今、手入れしてくださっている。あなた、ご覧になったでしょう。それはネ、当面動く気はありませんよという意味ですよ。少ぉ~し、頭を巡らせてくださいましね。

シャン!

 

君だけ

 

  みんなみんな、平等な命だと、思ってますよ。いちおうはネ。

 それぞれの命に、貴賤の別はないと、思ってます。すべての因果を理解するだけの見識が当方に不足しているだけで、じつはみんなみんな、経緯だの必然性があって登場したにちがいない命だと、ホント、思ってますよ。
 進化説ってのが当方にはありましてネ、生存競争も理解してます。弱肉強食も自然淘汰も、了承してるんです。共生とか寄生とか、共存共栄ということも、知ってるんです。知識としてはネ。お互いの利害の対立や交錯を、調整してゆくのが自然というものだと、知っちゃあいるんです。

 けれどもですよ。失敬ながら君だけは、たとえ幼いうちでも、眼に着いたら引っこ抜かれてしまうのですよ。だってヤブガラシ君、君のやり口はあんまりにもエゲツナイですもの。
 周囲の草ぐさよりも、図抜けて早く成長しますよね。ひと晩眼こぼししようもんなら、明日には眼に見えて背丈が伸びているでしょうが。それも幼いうちは、ツンと突っ立って、可愛らしげにしているけれども、なぁにやがては立木を見つけて絡みつく。塀にへばりつき雨樋にも絡みついて、上へ上へと猛烈な速度で成長する。ツタのように建物の側面を覆ってしまうことすら、ありますよねぇ。

 周囲の草ぐさを出し抜いて、いち早く陽光を独占することに賭ける、君の情熱と速度には、いつも驚嘆させられます。上へ這いあがる足場が近くに視当らぬ場合の、適当な足場を探して地表を横に這い伸ばしてゆく速度も、恐るべきもんです。
 兵站線が長くなって、水分・養分の補給に困難が生じたとみるや、茎の節目から髭のような根を出して、新たに中継地点の根を、地中に潜らすじゃないですか。
 あんまりにも大きく逞しく育った君の茎を、元から抜かねばと辿ってゆくと、とんでもない距離を這い伸びてきていると判明して、呆れるを通り越して、感心させられたこともありましたぜ。
 つまり君は、陽光を激しく求めて、垂直方向にも水平方向にも、俊足を発揮するわけですよネ。

 自然界にあっては、樹木の根方に芽吹いた君は、樹木の根にへばりつき、幹や枝に絡みついて、ついには梢にまで達して、特等席で陽光を浴びる。なおも個体を成長させたい君は、今度は横移動して、樹木の枝先や梢を君の葉で覆ってしまう。さらに蔓を伸ばして、隣に立つ樹木へと伸長してゆく。個々に樹が立っているにすぎないジャングルの天井を、ひとつながりのフタのように覆ってしまうのは、おゝかた君の仕業でしょう?
 しかもその成長速度と繁殖力だもの。きっと地中の養分をも、大量に消費して、地味を痩せさせてしまうにちがいありません。
 成長した君からすっかり陽光と養分とを横取りされてしまった樹木は、元気がなくなり、ひどい場合には枯れてしまう。
 情け容赦ないにもほどがありましょう。あんまりにもエゲツナイじゃありませんか。

 君は知らんでしょうがネ、人間が勝手に付けた君の名はヤブガラシ(藪枯らし)と申しましてね、あまり印象の好ましい名ではありません。つまり君、評判好くないんですよ。
 それが証拠に、かの悪名高いドクダミ集団よりも先に、抜かれてしまうんですから。

 だからネ、タンポポだろうがクローバだろうがオダマキだろうが、芽吹いたものはあるていど成長を見守って、いちおうの役割を終えたところで毟り取るのが方針だという、この家の爺さんだってね、君だけは、幼いうちからでも、眼についたら抜いてしまうことになるんです。
 つまりは、君の自業自得でしょうが。

婿殿に

 
 黒澤明映画『乱』に、主筋にはいさゝかも重要ではないが、大好きな場面がある。

 媚びへつらいの太郎・次郎とはちがって気骨青年三郎は、父である大殿(おゝとの)の機嫌をそこねて、勘当・追放の身となる。その心映えを多とした隣国の武将藤巻信弘(植木等)は三郎を娘婿とする。
 時が経って、腐敗をきわめる生国へと巻返すべく、三郎の軍は立った。軍紀整う三郎軍とはいえ、戦の帰趨は予断を許さない。だが、国を挙げての全面戦争に拡大することは三郎の本意ではなく、義父の軍たる藤巻本隊には参戦を控えるよう、事前に願い出てあった。
 にもかゝわらず藤巻信弘は大軍を擁して山の峰に陣を敷き、戦場を遠巻きにして、万が一に備えた。その時の、植木等さんの台詞。
 「わしはちと、大袈裟だったかのぉ。婿殿に、叱られねば好いが……」(不正確。あくまで大意)
 頼もしいようなとぼけたような、なるほど、ほんとうに強い人の言葉とはかようなものかと、納得がゆく台詞だった。

 お向うの粉川さんの奥さまから、谷中ショウガを頂戴した。
 「手土産にいたゞいたんだけど、アタシはこういうもんはねぇ。アンタならお酒飲むから、ちょうど好いでしょう」
 土産にこういうものってどうよ、と一瞬頭を掠めたが、大好物につき、ありがたく頂戴した。ガリガリかじってもよろしいし、むろん薬味にも酒のツマミにも。が、せっかくだから、酢漬けにしてみようか。

 包丁の刃で薄皮を剥ぎ落し、塩を振っておく。わずかにすぎないが剥ぎ落した皮がミゾレ状となって俎板に残る。これはあえて余りラップで包んだりはせずに、そのまゝ生ゴミ袋に投じる。少々なりとも消臭効果があるかもしれない。
 葉の部分は、使い途がありそうでもあるが、もったいがらずに輪ゴムで束ねて冷蔵庫へ。絶大な消臭・防腐効果を発揮してくれることだろう。

 さて漬け酢である。どれほどが適量かの知識は皆無。例のごとくヤマ勘。小鉢に酢をこぉれぐらい。ヤマ勘によると、直感的に思いつく量よりも砂糖は多めのはずである。が、砂糖甘くなってはならないから、酢の刺激を抑えるために、邪道かもしれぬが酒を少々差すか。そして塩ひと摘み。塩が多過ぎると、うまくゆかない気がする。
 掻き混ぜて、スプーンに取って味見してみる。だいたいこんなものか。

 フリージングバッグ(密閉ビニール袋)で、横たえる格好で漬ける。縦に漬けては、おそらく茎の部分がどうにかなってしまいそうな気がする。

 粉川さんから頂戴したのは、じつは一昨日のことだった。ショウガだもの、すぐに傷んだりはするまいと、怠けていた。ところが今朝、煙草を切らしてファミマまでと思って往来へ出ると、奥さまとバッタリ。
 「ねぇねぇ、もう召しあがった?」
 「いゝえまだ、酢漬けにでもしてみようかと思って」
 べつだん嘘をついても始まらない。と、
 「なぁんだぁ、早く食べてよぉ、どうせ飲むんでしょお」
 さも残念そうに、云われてしまった。

 そこで本日、ちょうど在庫切れ間近になっていたこともあって、スーパーへ直行。砂糖と料理酒とを補充してきた。で、砂糖のお徳用袋と料理酒のリットルボトルを前にして、想うのである。漬け酢は玉しゃもじにわずか二杯。
 「わしはちと、大袈裟だったかのぉ。婿殿に、叱られねば好いが……」

今しかできぬ

JBA 三屋裕子会長から

 若者が、今しかできぬことに無我夢中で励む姿は、清々しいもんだ。年寄りがさように感じるのは、舞台というものが誰にでも公平に与えられるものではないと、承知しているからだ。

 オリンピックで銀メダルを獲得したナショナルチーム全員を前に、JBA日本バスケットボール協会三屋裕子会長がじきじきに、ねぎらいと感謝の言葉を述べた。
 お疲れさま、おめでとう、ありがとう、というわけだ。こんな言葉を添えられた。
 「オリンピアンというのと、メダリストというのでは、全然ちがうんだよね。皆さんは生涯、東京オリンピッック銀メダリストという肩書で呼ばれることになります。その資格を、皆さんは自分の手で勝ち取ったというわけです」

 頷きながら聴いていた選手たちに、その意味が伝わったかどうか、正直申して疑わしい。仕方のないことだ。
 三屋さんがどんな運命に見舞われた、どれほどの選手だったか、現役世代は知る由もあるまい。彼女らが生れる十数年前、うっかりすると二十年も前のことだ。
 女子バレーボール界で日本一の、いや当時世界屈指のセンタープレイヤーだった。レフトにもライトにも、彼女より長身の大砲はいた。しかし女性としては桁外れのジャンプ力と運動能力をもって、三屋裕子がセンターにいたからこそ、左右の大砲は活きた。ブロックの戦略も立てられた。その時期のナショナルチームは、強いチームだった。

 選手として三屋裕子が絶頂のとき開催されたのが、1980年モスクワ・オリンピックだった。ところがその前年にソ連アフガニスタンに侵攻した。東西冷戦構造時代だ。抗議の意思を表明すべく、アメリカ合衆国を筆頭に西側各国はボイコット不参加、もしくは国家による派遣を辞退して選手個人資格にて参加という態度を表明した。選手団を形成しても国旗は表示させない国もあった。
 日本国内でも、参加・不参加の両説激しい応酬があり、結果としてアメリカと歩調を合せるかたちで、ボイコット不参加と決断した。勢い・切れ味ともに抜群だった三屋裕子を、オリンピックの舞台で見せることはできなかった。

 しかし彼女はその後も粘った。引退しなかった。四年後のロサンゼルス・オリンピック。老練な頭脳プレーで世界を悩ませる三屋裕子がいた。銅メダル獲得。彼女はオリンピアンとなっただけでなく、メダリストにもなった。
 JBA 会長である三屋さんが、現役選手に向って「メダリストというのは、全然違うんだよ」とおっしゃるのは、若者へのたんなるお褒めの言葉などではないのだ。
 ほかにも選手としての絶頂期にモスクワで水を差され、粘ってロサンゼルスで遅咲きの花を咲かせた人に、柔道の山下泰裕さんがある。彼はJOC日本オリンピック委員会)会長である。
 今しかできぬ若者の挑戦の「今」を、途方もない努力で持続させたお二人だ。

 現役選手を引退後、三屋裕子さんは筑波大学へ戻られた。高校・大学でバレーボールの指導をしながらも、大学院で体育学研究専攻を修了。美と健康ということだろうか、女性下着会社の顧問を振出しに経営の道へと進まれ、何社もの社外役員を歴任したのち、みずから経営者にもなられた。そして別の球技バスケットボールの世界で役員・協会会長へと進んでこられた。
 若き日に、悔しくも不発に了った「今しかできぬ」を、半生かけて取返しに歩いてこられたかたとお見受けする。

 

 「今しかできぬ」挑戦に飛発つ選手がある。彼女の努力をだれよりも知る相棒がある。Wリーグ準優勝の表彰台で抱き合い、けっして見せたことのなかった涙を、ふたりともが見せた。このワンシーン画像を永久保存版とするファンは少なくあるまい。

 Wリーグにあっては、フォーメーション(約束事)の多いチームとして、またコート外でも選手たちの仲が好いチームとして、レッドウェーブは知られている。チームメイトたちは、自分がアメリカへ乗込むがごとき熱量のようだ。

 選手・コーチ陣・マネージャー・トレーナー陣などゲームスタッフだけではない。メディアや映像で紹介される機会はほとんどないが、試合会場へ足を運んだファンにとっては、つとにお馴染みの美女たちも、応援している。

 今回ユーチューブで、町田瑠唯壮行の映像を観て胸打たれたのは、この人の登場だ。かつて長年にわたってレッドウェーブの顔であり、常なるキャプテンだった三谷藍さんだ。移籍経験もなく、このチームひと筋だった。黄金時代もどん底時代も知っている、唯一の選手だった。長嶋茂雄さんを巨人軍のミスターと呼ぶのであれば、レッドウェーブのミズと呼べるのは彼女を措いてはありえない。

 若者は「今しかできぬ」でよろしいではないか。
 以下のように考えるのは、年寄りの役目だ。いつまでもさようはわけにはゆかねぇよ。やりたくてもできねえってことだってあるさ。できねぇ環境で生きる人間があらかたさ。ま、できねぇほうが、無難で幸せってことも、あるだろうサ。
 三屋裕子さんが「生涯の肩書」とおっしゃるのも、三谷藍さんが「純粋に楽しんで」とおっしゃるのも、年寄りに寄せた心持ちからだろう。

顔ぶれ


 深夜の小公園に人影はない。風もなく、八重桜がひと株、黙って立っている。今を盛りとたわわに咲き誇っているが、若葉も勢いよく芽吹いてきているから、花の独り舞台という姿ではない。
 その名も児童公園というのだから、深夜に人影がないのは不思議ではない。そりゃそうだ。けれどこの小公園が見せる風景は、児童たちによる情景ばかりではない。

 朝六時半はラジオ体操の時間だ。NHKラジオ放送を録音してくださっている奇特なかたのお世話で、耳慣れた音楽と掛声が流れ、なん名かが毎朝体操しておられる。若い人の姿はない。ラジオ体操の唄、準備ストレッチ、第一、首と肩の回転、第二と、放送どおりに進行する。
 録音であれば、べつにラジオでの放送時間に合せることもなかろうと、思わぬでもないが、それは外野席の私が思うだけのことであって、そういうもんじゃないんだろう。今の今、全国津々浦々で、なん十万なん百万という同志が同時に体操しているということが、ご参加のかたがたにとっては大切なのだろう。
 お気持は解る。ごもっともだ。私自身は参加したことないし、今後お仲間に加えていたゞくつもりも、今のところないけれども。

 朝が冷え込む季節は、さすがにお休みで、花ほころぶころになると、復活する。今は四五人だが、温かくなると十人は超える。もっと多かった時期もあったが、近年減少傾向だ。互いがことに親しい間柄というのでもないらしい。「第二」が了ると、軽い挨拶程度の会話をほんの二言三言交したきり、順不同で散会してゆく。世話役めいたかたは、ラジカセを小脇に抱えて帰ってゆく。

 ある朝、出掛けていって、「ちょいと隅っこにお邪魔します」となれば、翌朝からはメンバーらしい。来るもの拒まずの極北である。その代り「あの人、こゝんとこ顔見せないね」「そういえば、そうね」で了り。他所へ引越して行こうが、病で寝込もうが、詮索はしない。
 「なんだ、知らなかったのかい。あの人、死んだよ。もうふた月にはなるかねぇ」「そうだったのかい、丈夫そうに見えたがねぇ。なんか商売してた人かね?」「知らねえ、たしかに勤め人上りには見えなかったわな」
 深入りは互いに面倒と、百も承知の人たちだ。自分だっていつなんどきと、千も合点の人たちだ。
 そういう人が全国になん十万も、それ以上も……。「ラジオ体操」はNHK の大功績のひとつと、私は本気で信じている。

 午前中は児童たちの時間だ。砂場で幼児を遊ばせるお母さんたちがある。いわゆるママ友場面が繰広げられる。週末に限り、午後になるとパパと息子のキャッチボールなどもある。「球技禁止」の掲示板もあるにはあるが、軟式庭球よりもっと安全そうなゴムボールだ。目くじら立てる人もないのだろう。
 また近所には、組織のしっかりした保育園があるものだから、何人かの保育士さんがたの引率で、二十人以上の幼児たちが騒ぎに来る。日光浴兼運動だろう。保母さんだけでなく、保父さんも混じって、役割分担や担当人数など、専門家的な手分けによっているらしい。見事な手際である。ブランコには触らせない。幼児には危険なのだろう。
 私にはとうてい務まらない。子どもたちあれほどの人数の、名前を憶えられない

 来るときも帰るときも、元気な幼児たちは二人づつ手をつないで二列縦隊で歩くが、ごく幼い子や躰の弱そうな子は、手押し車に乗車させられる。荷物運びの台車が、畳一畳分ほどに大きくなったような乗り物で、そこに六人も八人も乗せられた児童たちが、手すりをしっかり握りしめた姿勢で、揃いも揃って同じ顔つきで運ばれてゆく光景は、微笑ましいを通り越して、思わず吹き出す。
 昔、上野駅の列車構内には、チッキ荷物や鉄道便荷物を、荷物車から待合室や配送トラックまで運ぶ連結台車が、忙しそうに往ったり来たりしていて、一度でいゝからあれに乗ってみたいと思ったもんだったがと、ふいに思い出したりした。

 宵の口は若者たちと外国人さんの時間だ。なん脚かのベンチでは、どんな愉しいことがあるのか、時おり笑い声を挟みながら延々と話し込む二人組がある。かと思うと、さすがに音は出せぬからコード接続していないギターを、独り黙々と(いやシャカシャカと)練習し続ける青年がある。外国語で話し込む小グループもある。恐れを知らぬ豪傑とでもいおうか、街灯の下で雑誌を読んだりする青年まである。

 そして深夜は、早朝から宵の口まで一度も利用されなかった公衆電話ボックスが、利用される時間だ。
 解放されたような顔からも、必死な表情からも利用される。秘密めいたヒソヒソ声もある。お国訛りもある。なんだか愉しそうだ。外国語もある。なんだか辛そうだ。

 昔、前の道は川だった。こゝは原っぱだった。小学生の私は野球をした。
 東京オリンピック前の半年近くのあいだ、直径が低学年生の背丈ほどもある、長さ四五メートルのコンクリート管が数十本、原っぱの一画に積上げられていた。邪魔だった。その管を使った突貫工事で、川は暗渠となって地下に隠された。
 原っぱの半分に三階建てのビルが建ち、区の集会場や老人福祉施設や用途も役割もいまだに判らぬ区役所関係の事務所となった。残りもう半分が、児童公園となった。

 まだ温かさが足りないのか、あるいは疫病禍の故か、ラジオ体操の顔ぶれだけでなく、小公園に過す人の数は、昔日に遠く及ばない。公衆電話の利用者も。
 あの外国人さんたちは、無事にお国へ帰れたのだろうか。それとも今も日本のどこかで働いているのだろうか。出入国管理施設などに押込められていなければよいが。

ほの渋い

佐藤洋二郎『Y字橋』(鳥影社、2022)

 あの人は、あの後どういう人生を送られたのだろうか。お幸せだったろうか。今もどこかで、おすこやかにお過しだろうか。

 一度だけでも、お会いしてみたい気もする。相手が女性の場合は、とくに。
 伝手をたよって手蔓をさぐり、足を棒にすれば、可能かもしれない。あるいは興信所のような調査機関に依頼すれば、容易なのかもしれない。
 だが、やめておこう。やはり野に置け蓮華草ということもある。『舞踏会の手帖』ということもある。だいいち、当方がすっかりみすぼらしく醜い老人となり果てた今、先方だって興醒めだろう。ご迷惑ですらあろう。

 老人は、過去のピースをモザイク・タイルのように組合せて日々を過している。新しいことなど、さほど望まない。未来への関心を失ってはいないが、うまく思い浮べられない。あれこれの新情報や新技術が理解できないからだ。
 あの人は今どういう……ふと想ってみるだけのことである。

 佐藤洋二郎さんが、ご新著『Y字橋』をご恵送くださった。二〇一七年からの四年間に文芸雑誌に発表された、短篇小説六篇を編んだ小説集だ。奥付日付を視ると、まだ発行日前だから、書店に並ぶのはこれからなのかもしれない。
 私と同齢の佐藤さんだが、じつによく励まれて、お仕事量の多いかただ。おそらくは、途中から娯楽小説へ転身なさったかたは別として、純文学一本で通された現役小説家としては、日本で一番お仕事量の多いかたではあるまいか。
 題材により狙いにより、作柄はいくつかに分類できようが、なかでひとつの方向を辿った諸篇を、本書に集めてある。

 その方向とは、作者等身大の主人公(一人称視点も三人称視点もある)が、めっきり老いを自覚させられる日常にあって、ふいに何十年も前に縁あった女性と再会する噺である。
 甘酸っぱい縁もあれば、ほろ苦い縁もある。時おり思い出すことがあった人もあれば、すっかり忘れたように過してきた人もある。生きてるうちに一度会っておきたいと連絡してきた場合もあれば、まさかこんなところでと意表を衝かれたかたちで出くわした場合もある。そこは、それぞれの物語だ。失礼ながら、佐藤さんへのお礼状には「ジジィ向けのメルヘンですね」と書き添えておいた。

 再会すればどうしたって、その頃の自分と彼女、その時代の空気と互いの身の上を思い出さずにはいられない。そして自分と妻による現在にいたるまでの闘いの日々を想わずにはいられない。
 記憶は甘酸っぱかったりほろ苦かったりするけれども、現実はそれらの味を去って(というか味など抜けてしまって)、そんな日本語はないが、たゞ「ほの渋い」味のような匂いのような、手触りのような気配が残っているばかりだ。

 『光』。旧友の通夜で、久かたぶりの女性に逢う。彼女と旧友との間には、自分の知らぬ側面があったと、初めて知らされた。まっすぐ帰宅する気になれず回り道して、何十年ぶりかで訪れる街を歩いてみた。記憶と同じ屋号の居酒屋がある。まさかと思いつゝも暖簾を分けてみると、かつての看板若女将がマクベスの前に現れるような老婆となって、そこにいた。
 深酒して帰路につくが、電車内で眠りこけ、乗り過してしまった。初めて降りた駅。駅前にはタクシーの影もなく、商店の灯すらない。いきなり林が続くばかりで、どちらへ歩けば街道へ出られるのかも判らない。またか、済まないと思いつゝスマホを取出し妻へ応援要請。そのまゝ駅前にへたりこむ。また居眠り。
 どれくらい経ったろう、妻の車が到着して起される。街道まではけっこうあるらしい。助手席から眺める沿道は黒々とした闇一色で、わずかにヘッドライトに照らし出された部分だけが一瞬森となり、側面へと飛び去ってゆく。
 鬼気迫る光景だ。呆れを通り越したのか、妻は案外平然としてくれている。夫婦の会話のそこはかとないユーモアが、一篇を救い、締める。

 技法の面では、全篇通じての特色ながら、ことに注目したのは『ガスマスク男』『虹』だ。現在・過去・大過去の遠近法を圧縮して、それどころか消去して、一枚のガラス板の上に色とりどりのシールでもベタベタ並べるように展開する。初心者の小説手習いには、お奨めできない。
 本書の場合には、現在の眼前光景と、ふいによみがえる記憶の断片的情景とは、まさにこのように前触れもなく、しかも均等な存在感をもって襲いかかってくるとの現実味を帯びている。年寄りが過去を蘇らせずにいられぬ、または過去に縛られてあるとは、おっしゃるとおりこんなふうだと思い当り、納得できる表現だ。
 近年の若手小説家たちが、どんな狙いで描写しているものか、事情に暗いのだけれども、佐藤さんのこれ、けっこう佳いんじゃないだろうか。

さて次は

三好南穂(背番号12)

 今シーズンWリーグ、優勝はトヨタ自動車アンテロープス
 主将三好南穂はすでに、今シーズン限りでの引退を表明。

 なおシーズン通しての部門別表彰において三好は、スリーポイント成功率・フリースロー成功率の二冠獲得。
 スリーポイント:40/77、51,95%
 フリースロー:34/37、91,89%

 最後の最後に、デッカイ花が咲いて、ほんとうによかった。

町田瑠唯(背番号10)、篠崎澪(背番号11)

 準優勝は富士通レッドウェーブ

 主将町田瑠唯は部門別表彰において、今年も当然のようにアシスト王。数日うちにはアメリカへ発つのだろう。
 もしも部門別表彰に、「もっとも走った」部門や「逆境を切り拓いたプレー」部門や「そんなところに得点チャンスがあるのか」部門があったら、間違いなく篠崎澪がダントツ表彰だろう。
 想えば2013年、関東学生リーグで松蔭大学の主将として背番号5をつけていたとき、はじめてこの選手に注目したのだった。それから昨年の東京オリンピック3×3まで、とにかく篠崎澪は、走り続けてきた。

 世界のだれでもなく、この二人の間でしか通らない眼の醒めるようなキラーパスが、この九年間に何百本あったのだろうか。ということは、練習において二人は、あんな奇跡的パスを何万本通してきたのだろうか。

 時代は確実に移る。疫病禍が去ることでももしあったら、さて、次はどのチームのだれを「追っかけ」て、チケットを買おうか。あまり遠方のチームでなければよろしいのだが。