一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

顔ぶれ


 深夜の小公園に人影はない。風もなく、八重桜がひと株、黙って立っている。今を盛りとたわわに咲き誇っているが、若葉も勢いよく芽吹いてきているから、花の独り舞台という姿ではない。
 その名も児童公園というのだから、深夜に人影がないのは不思議ではない。そりゃそうだ。けれどこの小公園が見せる風景は、児童たちによる情景ばかりではない。

 朝六時半はラジオ体操の時間だ。NHKラジオ放送を録音してくださっている奇特なかたのお世話で、耳慣れた音楽と掛声が流れ、なん名かが毎朝体操しておられる。若い人の姿はない。ラジオ体操の唄、準備ストレッチ、第一、首と肩の回転、第二と、放送どおりに進行する。
 録音であれば、べつにラジオでの放送時間に合せることもなかろうと、思わぬでもないが、それは外野席の私が思うだけのことであって、そういうもんじゃないんだろう。今の今、全国津々浦々で、なん十万なん百万という同志が同時に体操しているということが、ご参加のかたがたにとっては大切なのだろう。
 お気持は解る。ごもっともだ。私自身は参加したことないし、今後お仲間に加えていたゞくつもりも、今のところないけれども。

 朝が冷え込む季節は、さすがにお休みで、花ほころぶころになると、復活する。今は四五人だが、温かくなると十人は超える。もっと多かった時期もあったが、近年減少傾向だ。互いがことに親しい間柄というのでもないらしい。「第二」が了ると、軽い挨拶程度の会話をほんの二言三言交したきり、順不同で散会してゆく。世話役めいたかたは、ラジカセを小脇に抱えて帰ってゆく。

 ある朝、出掛けていって、「ちょいと隅っこにお邪魔します」となれば、翌朝からはメンバーらしい。来るもの拒まずの極北である。その代り「あの人、こゝんとこ顔見せないね」「そういえば、そうね」で了り。他所へ引越して行こうが、病で寝込もうが、詮索はしない。
 「なんだ、知らなかったのかい。あの人、死んだよ。もうふた月にはなるかねぇ」「そうだったのかい、丈夫そうに見えたがねぇ。なんか商売してた人かね?」「知らねえ、たしかに勤め人上りには見えなかったわな」
 深入りは互いに面倒と、百も承知の人たちだ。自分だっていつなんどきと、千も合点の人たちだ。
 そういう人が全国になん十万も、それ以上も……。「ラジオ体操」はNHK の大功績のひとつと、私は本気で信じている。

 午前中は児童たちの時間だ。砂場で幼児を遊ばせるお母さんたちがある。いわゆるママ友場面が繰広げられる。週末に限り、午後になるとパパと息子のキャッチボールなどもある。「球技禁止」の掲示板もあるにはあるが、軟式庭球よりもっと安全そうなゴムボールだ。目くじら立てる人もないのだろう。
 また近所には、組織のしっかりした保育園があるものだから、何人かの保育士さんがたの引率で、二十人以上の幼児たちが騒ぎに来る。日光浴兼運動だろう。保母さんだけでなく、保父さんも混じって、役割分担や担当人数など、専門家的な手分けによっているらしい。見事な手際である。ブランコには触らせない。幼児には危険なのだろう。
 私にはとうてい務まらない。子どもたちあれほどの人数の、名前を憶えられない

 来るときも帰るときも、元気な幼児たちは二人づつ手をつないで二列縦隊で歩くが、ごく幼い子や躰の弱そうな子は、手押し車に乗車させられる。荷物運びの台車が、畳一畳分ほどに大きくなったような乗り物で、そこに六人も八人も乗せられた児童たちが、手すりをしっかり握りしめた姿勢で、揃いも揃って同じ顔つきで運ばれてゆく光景は、微笑ましいを通り越して、思わず吹き出す。
 昔、上野駅の列車構内には、チッキ荷物や鉄道便荷物を、荷物車から待合室や配送トラックまで運ぶ連結台車が、忙しそうに往ったり来たりしていて、一度でいゝからあれに乗ってみたいと思ったもんだったがと、ふいに思い出したりした。

 宵の口は若者たちと外国人さんの時間だ。なん脚かのベンチでは、どんな愉しいことがあるのか、時おり笑い声を挟みながら延々と話し込む二人組がある。かと思うと、さすがに音は出せぬからコード接続していないギターを、独り黙々と(いやシャカシャカと)練習し続ける青年がある。外国語で話し込む小グループもある。恐れを知らぬ豪傑とでもいおうか、街灯の下で雑誌を読んだりする青年まである。

 そして深夜は、早朝から宵の口まで一度も利用されなかった公衆電話ボックスが、利用される時間だ。
 解放されたような顔からも、必死な表情からも利用される。秘密めいたヒソヒソ声もある。お国訛りもある。なんだか愉しそうだ。外国語もある。なんだか辛そうだ。

 昔、前の道は川だった。こゝは原っぱだった。小学生の私は野球をした。
 東京オリンピック前の半年近くのあいだ、直径が低学年生の背丈ほどもある、長さ四五メートルのコンクリート管が数十本、原っぱの一画に積上げられていた。邪魔だった。その管を使った突貫工事で、川は暗渠となって地下に隠された。
 原っぱの半分に三階建てのビルが建ち、区の集会場や老人福祉施設や用途も役割もいまだに判らぬ区役所関係の事務所となった。残りもう半分が、児童公園となった。

 まだ温かさが足りないのか、あるいは疫病禍の故か、ラジオ体操の顔ぶれだけでなく、小公園に過す人の数は、昔日に遠く及ばない。公衆電話の利用者も。
 あの外国人さんたちは、無事にお国へ帰れたのだろうか。それとも今も日本のどこかで働いているのだろうか。出入国管理施設などに押込められていなければよいが。