一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

今しかできぬ

JBA 三屋裕子会長から

 若者が、今しかできぬことに無我夢中で励む姿は、清々しいもんだ。年寄りがさように感じるのは、舞台というものが誰にでも公平に与えられるものではないと、承知しているからだ。

 オリンピックで銀メダルを獲得したナショナルチーム全員を前に、JBA日本バスケットボール協会三屋裕子会長がじきじきに、ねぎらいと感謝の言葉を述べた。
 お疲れさま、おめでとう、ありがとう、というわけだ。こんな言葉を添えられた。
 「オリンピアンというのと、メダリストというのでは、全然ちがうんだよね。皆さんは生涯、東京オリンピッック銀メダリストという肩書で呼ばれることになります。その資格を、皆さんは自分の手で勝ち取ったというわけです」

 頷きながら聴いていた選手たちに、その意味が伝わったかどうか、正直申して疑わしい。仕方のないことだ。
 三屋さんがどんな運命に見舞われた、どれほどの選手だったか、現役世代は知る由もあるまい。彼女らが生れる十数年前、うっかりすると二十年も前のことだ。
 女子バレーボール界で日本一の、いや当時世界屈指のセンタープレイヤーだった。レフトにもライトにも、彼女より長身の大砲はいた。しかし女性としては桁外れのジャンプ力と運動能力をもって、三屋裕子がセンターにいたからこそ、左右の大砲は活きた。ブロックの戦略も立てられた。その時期のナショナルチームは、強いチームだった。

 選手として三屋裕子が絶頂のとき開催されたのが、1980年モスクワ・オリンピックだった。ところがその前年にソ連アフガニスタンに侵攻した。東西冷戦構造時代だ。抗議の意思を表明すべく、アメリカ合衆国を筆頭に西側各国はボイコット不参加、もしくは国家による派遣を辞退して選手個人資格にて参加という態度を表明した。選手団を形成しても国旗は表示させない国もあった。
 日本国内でも、参加・不参加の両説激しい応酬があり、結果としてアメリカと歩調を合せるかたちで、ボイコット不参加と決断した。勢い・切れ味ともに抜群だった三屋裕子を、オリンピックの舞台で見せることはできなかった。

 しかし彼女はその後も粘った。引退しなかった。四年後のロサンゼルス・オリンピック。老練な頭脳プレーで世界を悩ませる三屋裕子がいた。銅メダル獲得。彼女はオリンピアンとなっただけでなく、メダリストにもなった。
 JBA 会長である三屋さんが、現役選手に向って「メダリストというのは、全然違うんだよ」とおっしゃるのは、若者へのたんなるお褒めの言葉などではないのだ。
 ほかにも選手としての絶頂期にモスクワで水を差され、粘ってロサンゼルスで遅咲きの花を咲かせた人に、柔道の山下泰裕さんがある。彼はJOC日本オリンピック委員会)会長である。
 今しかできぬ若者の挑戦の「今」を、途方もない努力で持続させたお二人だ。

 現役選手を引退後、三屋裕子さんは筑波大学へ戻られた。高校・大学でバレーボールの指導をしながらも、大学院で体育学研究専攻を修了。美と健康ということだろうか、女性下着会社の顧問を振出しに経営の道へと進まれ、何社もの社外役員を歴任したのち、みずから経営者にもなられた。そして別の球技バスケットボールの世界で役員・協会会長へと進んでこられた。
 若き日に、悔しくも不発に了った「今しかできぬ」を、半生かけて取返しに歩いてこられたかたとお見受けする。

 

 「今しかできぬ」挑戦に飛発つ選手がある。彼女の努力をだれよりも知る相棒がある。Wリーグ準優勝の表彰台で抱き合い、けっして見せたことのなかった涙を、ふたりともが見せた。このワンシーン画像を永久保存版とするファンは少なくあるまい。

 Wリーグにあっては、フォーメーション(約束事)の多いチームとして、またコート外でも選手たちの仲が好いチームとして、レッドウェーブは知られている。チームメイトたちは、自分がアメリカへ乗込むがごとき熱量のようだ。

 選手・コーチ陣・マネージャー・トレーナー陣などゲームスタッフだけではない。メディアや映像で紹介される機会はほとんどないが、試合会場へ足を運んだファンにとっては、つとにお馴染みの美女たちも、応援している。

 今回ユーチューブで、町田瑠唯壮行の映像を観て胸打たれたのは、この人の登場だ。かつて長年にわたってレッドウェーブの顔であり、常なるキャプテンだった三谷藍さんだ。移籍経験もなく、このチームひと筋だった。黄金時代もどん底時代も知っている、唯一の選手だった。長嶋茂雄さんを巨人軍のミスターと呼ぶのであれば、レッドウェーブのミズと呼べるのは彼女を措いてはありえない。

 若者は「今しかできぬ」でよろしいではないか。
 以下のように考えるのは、年寄りの役目だ。いつまでもさようはわけにはゆかねぇよ。やりたくてもできねえってことだってあるさ。できねぇ環境で生きる人間があらかたさ。ま、できねぇほうが、無難で幸せってことも、あるだろうサ。
 三屋裕子さんが「生涯の肩書」とおっしゃるのも、三谷藍さんが「純粋に楽しんで」とおっしゃるのも、年寄りに寄せた心持ちからだろう。