一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

トウが立つ

 

 不可解な案件あり。腹立たしきことのふたつみつ。気晴らしには雑草を引っこ抜くにかぎる。

 北は児童公園に、西はコインパーキングに接する、拙宅敷地の北西角にあたり、日ごろもっとも眼の届かぬ一画だ。建屋西側を繁殖地域とするフキの北限にして、建屋北側を繁殖地域とする厄介者の西限である。
 春先に眼を凝らしていれば、フキノトウが観られたのかもしれない。拙宅からまさか食用となる芽が吹くとも思わぬが、観察くらいはできたのかもしれない。すでに立派な茎となっていて、文字どおりトウが立ちまくっている状態だ。
 いく本もの茎が株立ちするように出ている地表部分の元を束ねるように握って、そろそろと真上へ引く。地下部分までが繋がったまま引上げられてくるのが理想だ。地下茎が横に走って、隣の株とネットワーク状態となってある。一見頑丈そうな株が存外細い地下茎の先にあったり、逆に地上部は成長途上としか見えぬにもかかわらずむくつけき地下茎につながっていて、その先でとんでもない大株と連絡されている場合もある。
 例により粗雑な引抜きだから、あたり一帯を根絶やしにすることなんぞは望むべくもない。作業さなかにあちこちで、地下茎はブツブツ音をたてて切れる。来年また伸びてくるつもりだろう。

  
 北辺の厄介者とはオニアザミである。葉先から茎の根元まで、丈夫な細針のような棘に覆われてある。軍手では応戦できない。道路普請や電気工事の工夫さんがたが着用するような、なにかで固めてあったり革で保護されてあったりする手袋が不可欠だが、あいにく装備していない。やむなくスコップを根周りに突っこんで株ごと掘起さねばならない。掘起してしまってから、棘の按配に注意しながら、重心に近い丈夫そうな葉を視つくろって、両手で抓んで移動させねばならない。
 この作業の面倒さに尻込みして一年間放置したために、丈が伸びるわ同類を繁茂させるわで、大骨を折る仕儀となってしまったのがたしか一昨年のことで、当日記にも記録した憶えがある。昨年はそれに懲りて、早いうちに始末した。花を着ける前だったので、やれやれこれで下火になろうかとひとまず安堵したものだ。が、とある種類の植物だけを根絶やしするなんぞという所業は、人間ごとき目の粗い動物のよく為しうるところではない。今年も芽を出してきた。今はほんの三株ほどだけれども、今後も後続部隊がやって来るかもしれない。以後も要注意である。

 不慮の事故被害に見舞われて、不愉快な案件に直面しても、面倒臭さの想いが先に立って、頭が素早くは回転しない。フキ以上に、当方にトウが立っている。

一瞬の細部

 『夢声戦争日記』の昭和二十年八月十四日のの末尾は、こうなっている。
 「この放送は翌日の三時迄続いた。放送員は最後にしみじみとした調子で、
 ~~さて皆さん、長い間大変御苦労様でありました。
 とつけ加えた。私もしみじみした気もちでスイッチを切つた。」

 その日も朝七時半までに、B29 が二度上空を通過した。高射砲の音が轟くが、命中するはずもない。B29 は印旛沼方向へ去ったが、音はやまなかった。八時半にまた警報が鳴り、相模湾から一機やって来た。
 昼食時には家族が額を寄せて、深刻な相談となる。「いよいよ大変なことになるんですって。死ぬなら親子一緒の方が好いかしらん。」疎開中の息子を呼び寄せるべきだろうかとの相談だ。
 夢声は食後、考えに沈む。不治の病に苦しむ患者にさえ、安楽術を施すことには疑問がある。ましてや子どもは自然の成果であり、民族のまた人類の動かしがたい一単位である。親の知で、情で、意で、どうこうできるものではありえない。たとえば敵がやって来て、子どもたちをなぶり殺しにする場面が生じたら、私の手で殺してやろう。そうでもない限りは、家族に青酸カリを服ませるようなことはけっしてするまい。徹底抗戦論も自決論も、なにかにつけて耳に入ってくる時勢だったが、夢声の肚は決った。

 有楽町では、日劇前で女性が古本を売っていた。築地警察署は焼け残っている。頭山秀三の投宿先を教えてもらい、訪ねた。頭山満の三男で、筋金入りの国家主義者にして主戦論者だ。事ここに至ってもなお怪気炎だった。さすがに戦勝論ではなかったが、負けかたが問題だとの説だった。
 東劇には市川猿之助の看板がかかっていた。新橋演舞場は全壊だった。放送局の文芸部を訪ねると、原爆の話題で持ちきりで、今夜は全員に当直命令が出たという。副部長がつねにもない表情でやって来て、今夜六時からの演芸番組は中止だとのことだった。
 新橋駅へと向う途中で、顔見知りの情報局役人とすれ違った。
 「夢声さんにも大活躍してもらおうと、素敵な計画があったんですが、駄目になってしまいました」
 頭山秀三、放送局員、情報局役人の顔色や態度から、近ぢか時局が動くと夢声は直観した。この手で我が子たちを殺すことには、どうやらなりそうもない。

 夜九時のニュース放送で、明日正午から「重大発表アリ」と報じられた。国民全員して謹聴するようにと。ニュースの中ほどでも仕舞でも、念を押すかのように繰返された。
 九時半、敵機一機が銚子方面から侵入し鹿島灘へと海岸線を北上して去った。十一時に警報発令。慌てて灯を消した。福島方面に侵入した敵機はおよそ三十機で、本日の来襲は長引く模様と、十一時五十分の放送で報じられた。飛行場をピンポイントで破壊しているか、宣撫工作のビラを撒いているのだろう。いちいち対応するのも馬鹿らしくなり、度胸を据えて床に就いた。

 で、冒頭の「さて皆さん、長い間大変御苦労様でありました」となる。日付け替ってその日はもう、多くの人が回想文を残している八月十五日である。
 今日この一行を五回十回と繰返し唱えていると、私にはアナウンサーの内心が痛いほどに伝わってくる。その日の玉音放送の内容あらましについて、彼はいずれの筋からか聴き知っていたのだろう。むろん片言隻句たりとも口になどできようはずもない。それはそうなのだが、いやそうであるからこそ、重要放送に携わる一員として、どうしても聴取者に届けたい想いが彼にはあった。ともすると放送後に上司から叱られるかもしれぬギリギリの線で、機械アナウンサーではなく肉声をもって語る人としての道を、彼は模索し勝負したのではなかったろうか。

 過ぐる三月十日の日記には、こんな一文が挟まっていた。
 「今日逢つた罹災者風景で、一番私の胸を打つたのは、父親に連れられた、小さな男の児が、さも大切そうにヒョットコのお面をぶらさげている態であつた。」
 前夜から今朝へかけての大空襲と火災の跡を調べ歩くように、夢声は銀座から新宿へと、仕事場の模様を視て歩いた。浅草は消えたという。川向うは平らな焼け野原だという。山の手を目指して歩く人びとは焼け焦げた襤褸を身にまとい、眼に包帯をして、連れに手を引かれて力なく歩く。泣く子に手を焼いて抱きかかえる母親の背では、括りつけられたもう一人の赤ん坊がぐったりしている。
 小一日かけてまのあたりにしてきた街並と人びとの惨状は、『往生要集』絵巻もかくやと想わせる鬼と餓鬼の世界だった。そんな見聞の果てに、夢声の胸にもっとも哀れを誘った一瞬の光景が、父親に連れられた男児の手に提げられたヒョットコの面だったというのだ。文学の問題として申せば、こういうのを「活きた細部」という。

 東京大空襲については被災面積○○平方キロ、死者・行方不明者・被災者それぞれ○○万人と、現在ではおおむね明らかなのだろう。八十年近い研究の成果だ。が、それら正確なデータからは「活きた細部」はことごとく消える。溶ける。そして数値を漉し残すための網の目から脱落してゆく。一次資料もしくはそれに近い目撃証言のみが、わずかに語り続ける。
 「長い間大変御苦労様でありました」というアナウンサーの声も、ヒョットコのお面も、その他『夢声戦争日記』に書き留められた満載の「活きた細部」も、一次資料もしくは準ずるものだが、これらはいわば実録だ。現場を知らぬ後進が資料に想像力を接ぎ木して、新たなる「活きた細部」を創り出すことができれば、文芸創作となる。

気分直し



 私にとって目白駅、目白警察署、目白消防署はいずれも、徒歩圏内だった。
 時間と労力とを考えれば、まず池袋へ出て、山手線に乗換えてひと駅。目白駅へと赴くのが普通かもしれない。それでは三角形の二辺の和を移動することとなり、気乗りがしない。不愉快ですらある。近道を徒歩で行くべきだ。長年にわたる生活信条であって、合理的理由は考慮外である。

 桜の老樹をへし折ったのは、いかなる形状のなんトン車であるか、私は車影をこの眼に視てはいない。かつて一度もさような危機も予兆もなかった事態に、どうしてたち至ったのか、解せずにいた。正確な事実はどなたからも聴かされてない。担当部署が異なるらしいいく組もの警察官グループと東電グループと処理工事に向けての視察者とが入乱れるように出入りして、私のほうではどなたになにを伺ったものかすら見当もつかず、当惑するほかなかったのである。
 正確な報告書は目白警察署「交通捜査係」へ挙るから、そちらで教わるようにとだけ、かろうじて指南を得た。
 それよりも、樹木が邪魔だ、電線が危険だ、ブロック塀が危険だ、門柱が危険だと、当面の危険回避の要請ばかりを受けた。事故当事者の影も形も見えぬなかで、警察と東電から指示されるままに、私は対応せざるをえなかった。東電がネットワークする工務店を紹介され、社長と相談づくで昨日までに応急工事を済ませた。
 で、今日はともかくも、目白警察署「交通捜査係」へ赴いて、次第を伺おうと思い立ったのだった。

 目白への道筋を歩く。道中は小学生時分に盛んに遊び歩いた町ばかりである。興味本位に回り道する。神山君一家が住んでたアパートあたりはどうなってるだろうか。安井君のお屋敷は今でもあるのだろうか。あるとすれば次の代のご当主つまり当時のお父上のお孫さんが現ご当主だろうか。
 目白通りの渋滞を避ける便利な裏道と名高い道はさすがに健在だったが、ひとたび折れ、さらに折れて住宅街の裏道へ入ると、そこが元のなんだったのか見当もつかない。
 統廃合で空き建築となっていた旧真和中学は、立教小学校になっていた。鬱蒼とした庭木に囲まれた徳川様のお屋敷は、おおむねそのままだった。あとはどこがどこやら、さっぱり判らない。
 ともかく目白通りへは出た。つけ麺発祥の中華そば屋の前には今日も行列があった。老舗の和菓子司二軒は健在だった。会社員の時分に隠れ家的喫茶店として重宝した伴茶夢は、今も営業していた。線路ぎわのこの路地を曲ると柳家小さん師匠のお宅だったと思い出した。目白駅はずいぶんとお洒落駅になったようだ。



 目白を歩いた人なら一度はシャッターを切ったことがあろう学習院正門前で、初めてシャッターを切ってみた。目白駅と同様、逆光につき色彩が出ない。
 途中の川村女子学園とはご縁がなかったし、目白病院へは入院した友達を見舞うために一度入ったきりだ。目白消防署には小学生新聞の豆記者として、取材に伺ったことがあった。「青空新聞」といったと、ふいに思い出した。新聞名だけで、取材内容についてはいっさい憶えてない。

 さて目白警察署である。運転免許証を所持したこともなく、幸い犯罪事件を起すこともなく済んだ身には、踏み入った記憶のない建物だ。ただしさんざん視慣れた建物ではある。警察署前の停留場を都バスの乗換停留場にしていた時期があった。練馬方向から東進してきた都バスが、眼と鼻の千歳橋から池袋方面行きと新宿方面行きとに分れる。で、池袋から新宿へと都バスで移動する場合には、練馬行きに乗って目白警察署前まで来て、対岸の停留場からスイッチバックするように新宿行きにと乗換えた。
 池袋から新宿への単純移動であれば、直通路線も山手線もあるから、まさかそんな面倒なルートを採るはずもないが、途中の牛込柳町だの、四谷三丁目だの、大木戸界隈だの、鉄道駅から半端な距離にある目的地への移動には、けっこう便利だった。
 さような場所に仕事場だの仕事相手だのがあって、なおかつ荒木町だの大木戸あたりにひねった遊び場をもった時代の記憶である。

 警察署では、親切に対応してはいただけたが、期待したほどの情報は得られなかった。立場上・制度上、開示できぬとする情報がほとんどで、「残念ながらその件については」の連続だった。いかなる経緯で、または原因・理由で事故は起きたか。解せない思いは解消されなかった。疲れがドッと出た。老化と日ごろの運動不足とによる足腰の劣化に、思い及んでなかった。


 帰りは目白駅から山手線に乗ろう、なんならタクシーを拾ったってかまうものかと思っていたのだが、情ないのと腹立たしいのとで、ヤケクソでもっと歩いてやれとの気分になった。目白駅とは反対方向へと歩き出し、千歳橋から下って、明治通り雑司ヶ谷方向へ。ここのところ少々ご無沙汰してしまった古書往来座さんへ、近々お世話になる予定の件で顔出ししておこうと思い立ったのである。
 まだ開店前だった。久かたぶりに近所をぶらぶらしてみた。かつて柳家小三治師匠のお憩み隠れ家だった喫茶店は閉店していた。カフェ造作そっくり居抜きでテナント募集の貼紙がしてあった。
 やがてご店主ご到着。開店段取り風景を明治通り対岸からワンショット。開店準備完了を見計って参上してみると、№2の店長さんもお揃いで、ご挨拶もお願いごとも一挙に済んでしまった。思いもうけぬ珈琲のご馳走に与り、耳寄りな情報までいただいて、いささか気分を軽くすることができた。
 気分を直し過ぎて、お暇ののち池袋駅まで歩く途中で、ついついジュンク堂書店に立寄ってしまい、意中の雑誌のほかに要らぬ買物までしちまった。これさえなければ、そう悪い日でもなかったのに。

無防備となる



 一時的に無防備中。ただし住人は危険人物につき注意!

 先方、つまり事故引起し会社および代理保険会社の立入りで進行すればよろしいのだろうが、当方としては目白警察署および東京電力から、一刻も早く危険状態を解消するようにと釘を刺されている身だ。悠長にもしていられない。
 おりしも年度当初だ。工務店への工事予約は殺到していることだろうし、材料費その他の価格高騰も尋常でないと聴く。東電からのお声がかりということで、無理にも日程調整してくださっているのだろうから、なりゆきで着工してしまう。

 午前八時半、職人衆の車が到着。社長さんがご挨拶に見え、立噺をしばし。その間に柳行李か茶箱ほどの大型発電機二台を先頭に、電気ドリル二丁にケーブル、その他の工具や掃除道具が手ぎわよく降ろされ、あたりに配置された。


 午前九時きっかりに、作業開始。電気ドリルの大音量。粉川さんのお婆ちゃんも出てくる。騒音のお詫び。併せて玉ねぎスープの素のお礼を申しあげた。
 道行くお顔馴染みからも声を掛けられる。今回の事故を説明申しあげたり、桜の想い出を伺ったり。寂しくなりますねえ。こういう場合の常套口上なのだろうか。いく人もから伺う。


 それにしても、電気ドリルの威力は凄まじい。ものの四十分ほどで、昭和三十三年以来のブロック塀はなくなってしまった。予想したとおりブロック自体はかなり劣化していたものの、いかにも昔の工事らしく縦横の要所に鉄筋が通っていたから、なんとか保ってきたのだろう。
 あとは門柱片方だ。変哲もないコンクリートの四角柱だが、芯が通っているから容易ではない。しかし電気ドリル二丁の前には、ひとたまりもなかった。
 音が発生する解体作業は、午前十時を回ってほどなく、済んでしまった。あとは産廃ゴミたるブロック欠片その他の片づけと掃除である。午前十一時には、拙宅は無防備に晒された状態となった。


 さて午後の部である。午前中とはガラリと顔ぶれの異なる職人衆が見えた。餅は餅屋の世界なのだろう。きっかり午後一時に作業が開始された。
 寸法取りして、往来に面した等間隔の地中に鉄パイプを打込む。背後つまり敷地内にもパイプを打込む。前面と背後のパイプ間を斜交いのパイプで連結する。仕上りフェンスの安定安全を確保するためだろう。職人衆三人の呼吸よろしきを得て、五十分ほどで支柱は組みあがった。そこで小休止。職人衆への挨拶をかねて立噺。


 あとは仕上げのみだ。フェンス設置と片づけ掃除を含めて、午後二時四十分には作業が終了した。
 本式の塀をいかように修復するかは、今後の相談と思案の上として、とりあえずの危険を除去せよとの、警察と東電とからの要請にはこれで応えた。併せて、交通安全のオレンジ色フェンスは、ここには得体の知れぬ生物が棲んでいるから侵入せぬほうが身のためだという、ささやかな意思表示にもなった。

 懸案箇所を連日巡回しているらしい、目白警察署警備班のご来訪は、午後三時半ころだった。ピケのビニールテープと、立入禁止・接近禁止のコーンと、コーン間に差し渡すタイガー縞のバーとを回収してゆかれた。
 晴れて拙宅は、ひとまず立入禁止区域ではなくなった。怪我をしている家の目印たるオレンジ色フェンスに囲われてはいるけれども。

音で消す

Viet Tran と Seth Robertson

 ちょうど九年前の今日、あなたはこんな投稿をしました。だって。

 フェイスブックには頼みもしないのにいろいろなサービス機能が備わっていて、なん年前の今月今夜の、あなた自身の投稿を思い出してみましょうと、ご親切に知らせてくださる。それをシェアして、想い出とも反省とも、また年月経過の話題とも感慨ともなさってはいかがでしょうか、というわけである。
 九年前の四月冒頭に、私はこんな投稿をしたらしい。「低周波消火器。コレって案外いいんじゃないかなあ」と、文面はいたって短い。科学技術の話題に口出しできる身とは思ってないから、開発途上の新技術に関心を示すことなんぞはめったにない。だからこそだろうが、このときのことは、うっすらと憶えている。
 ジョージ・メイソン大学でコンピュータ工学を専攻する学生二人組が、音波による消火器を開発したというニュースだった。

 小学生時分にだれしも経験したことだろうが、校庭に集合させられて、消防士さんから消火器の取扱い方法についての説明を受け、消火の実演を見せていただいた。日ごろから怖ろしいと感じている火が、あっという間に消えてゆくのを、ショーとして愉しく観賞した憶えがある。
 だが生意気系の悪ガキだった私には、密かな疑問が残った。「なにか質問は?」と問いかけられても、手を挙げたりはしなかったけれども。疑問はこうだ。実演してくれた灯油皿もその周りも、あんなに泡だらけにしてしまって、あとで片づけるのが大変じゃないのかなあ。毒なんじゃあるまいなあ。
 数年後に高学年となった時分に、同様の実演がまたあった。消火器の進歩が目覚ましく、新型を見せてくださるとのことだった。以前の消火器は、両手で持ったら一度逆さにして、上下に数回振る。ボンベの中の A 液と B 液とを混ぜるわけだ。それからピンを抜いてホースのノズルを火に向けると、AB 液の化学反応で凄い内圧となったボンベから勢いよく泡が噴出すという仕組みだった。眼の前で火がボンボン燃えているときの心理状態で、重い消火器を振ったりなんぞできるもんだろうか。それも悪ガキが抱いた疑問のひとつだった。
 ところが改良新型においては、上下に振ったりする必要がないという。しかもひと回り小型軽量化されたようだった。それに噴出するのは泡ではなく、粉だという。それも軽量化できた理由のひとつらしい。実演の手ぎわはお見事だった。ホースのノズルの先端の金属部分が回転するようになっていて、粉の噴出角度を調節できるようになってもいた。広い面積でユラユラ燃えている火と、狭い箇所でボンボン燃えている火とに、区別対応できるというわけだ。
 いずれの説明にも納得がゆきはしたが、このときも悪ガキには疑問が残った。灯油皿もその周りも、あんなに粉だらけにしてしまって、あとで片づけるのが大変じゃないのかなあ。家屋の小火が鎮火できて大火災とならずに済むのはめでたいこととして、あとの片づけの大変さは、泡だろうが粉だろうが、たんなる水よりははるかに骨が折れるのではあるまいか。むろん早期消火の恩恵には重々感謝したうえでのことではあるが。

 疑問は根本的には解決されぬまま成長してゆき、いつしか疑問自体を忘れて暮してきた。ところが突然思い出したのである。音による消火だってえ? ソレって、いいんじゃないかなあ。
 ジョージ・メイソン大学の学生二人組がアイデアを練り、開発したのは、重さ九キロで値段六百ドルの低音発生器だ。燃え盛る火に向けると音波振動が燃焼物の表面の空気を掻き回してしまって、酸素が行届かなくなってしまい、あっという間に火が消えるそうだ。これなら泡も粉も、水すらも残らない。燃えてしまったものは戻らないとしても、片づけはずいぶん容易となるにちがいない。
 で、お門違いの科学技術分野の話題にもかかわらず、つい投稿してしまったのだった。

 すっかり忘れていたのに、フェイスブックのお節介のおかげで思い出した。と同時に、もうひとつの点に気づいた。元ネタの動画が二〇一五年四月一日に発信されている。これはエイプリル・フールのユーモア・フェイクではないのか?
 気になって検索してみると、ユーチューブ動画は今でも観ることができる。トピックとして取上げた日本のニュース番組の一部まで観ることができる。どうやらフェイクではなかった模様ではある。。
 PR 動画では、地面に置かれたフライパンから盛んに炎が上っている。二人組が登場して、牧場で視る牛乳缶のようでもボンベのようでもある機械を、炎に向けた。超低音が聞えた。ジャズ喫茶やディスコ(死語?)でベース音スピーカーの前に陣取ったみたいだ。と、あれれっ、またたく間に炎が情ないものになり、数秒後には消えた。

 天候や風向きの影響で捗らない山火事消火なども、ドローンに搭載したこの機械を用いれば、容易に消せるのであろうか。
 しかしニュースから九年。いまだわが身辺に普及してないどころか、商品化されたとの噂すら耳にしないということは、実験には耐えても実用化にはなにかしら難題があるのだろう。それにしても値段六百ドルでは私には手が出そうもないが、ちょいと実物をこの眼で視てみたい機械ではある。

キリスト

横尾忠則「キリスト」(版画)

 四月八日は花祭だ。お釈迦さまの誕生日である。華やかに祝う地方も場所も、今だってあることだろう。
 わが幼き日には、母からガラスの三合瓶だか五合瓶だかを持たされて、使いに出された。金剛院さまのご門前では、甘茶が振舞われた。住民の行列ができた。差出された瓶の口に漏斗(じょうご)を差して、巨きな樽から柄杓で汲んだ甘茶を注ぎ入れてくださるのだ。
 花祭の行事とは、釈迦像の頭から甘茶をおかけすることだった。貧乏家庭に釈迦像などあるはずもないから、代りになにをしたのだったか記憶にない。が、そのお下がりというかお余りというか、甘茶を湯飲みで飲んだ記憶はある。たしかにほんのり甘味は感じたものの、子どもの口にはたいして美味いものでもなかった。不味くはなかったが、月並な味だった。
 いつの間にか、わが町から甘茶かけの風習は廃れていった。

 柄にもなく供養なんぞをしたせいか、部屋の壁に掛けっぱなしのまま埃を被るにまかせてある額に、ふいに眼が行った。
 いつから拙宅にご逗留だったろうか。神保町のボヘミアンギルドさんから移動してこられたキリスト像だ。父歿後しばらくまでは、父の知人である女性画伯のお作が、そのまま掛けられてあった。私も好きな画だったから、気にも留めなかった。自覚してはいなかったが、供養の気分もあったかもしれない。
 横尾画伯のキリストは、それよりも前からご逗留中だったが、掲げるに適当な壁もなく箱入りのまま、他の愛玩品とともに部屋の隅に立てかけられてあった。時おり取出しては眺める状態が、なん年か続いた。
 父の歿後、さてなん年経ったころだったろうか、いつまでも供養の壁でもあるまいとの気が起きて、さて代りはなににしようかと考え、横尾画伯の登場となった。来年は父の十七回忌だ。そう考えると、十年以上もわが部屋の壁にキリスト像が掲げられてあったことになる。とんと無自覚のままに。

 横尾忠則さんは私の世代にとっては、鮮烈なポスターデザインを次つぎと産み出されて、最先端の魅力を発揮なさった画家である。一九六〇年代末から七〇年代へかけての、前衛的小劇場運動だの娯楽仁侠映画だののポスターにあって、あっ、横尾忠則だ、とひと眼で判る画が人気を呼んだ。浮世絵風の大胆構図に、レトロ調の色彩を採り入れて、モダンアート感覚で按配した独特な世界だった。
 横尾調を採り入れようと図った作品も数多出現したが、物真似臭気が露わになり過ぎ、かえって嘲笑の的となりやすかった。模倣しやすそうに見えて、じつはさにあらず。似て非なるものによる追随を許さぬ独創だったわけだ。ロートレックの場合と同様だ。

 前衛ブームが去った後、横尾忠則さんはインド思想系スピリチュアル画像を次つぎ発表なさった。ヒッピームーブメントと呼応するように、一つの時代を主張した。その時期の画集をなん冊か所持したことがあるが、しょせん私には不釣合いな世界で、やがて手放した。
 商業デザイン的技法から離れて、油絵にて三叉路というか、ふた股に分れた街路風景ばかりを描いた時期が訪れた。私の受けた感じはビュッフェ作品への感動と似ていて、たいそう惹きつけられた。しかし印刷物として世に示されるデザイン物ではなく、一品制作の油絵が、私の眼前に現れるはずもなかった。そんなとき、神保町の美術書専門古書店で、一枚の版画作品と出逢ったのだった。

 信者に抱きすがられる磔刑中のキリストもいい。が、十字架から降ろされて、というか外されて、地に横たえられる、というかうち捨てられ放置されるキリストは、もっといい。
 キリスト教信仰とはなんの所縁もない私だが、気に入っている。信仰とは信仰者の胸の裡にのみあるもので、信仰対象の胸の裡になにがあったかを、なんら示すものではありえない。今の私の気分にピッタリだ。花祭にキリストだって、いいじゃないか。放っといてくれ。

供養



 かつてここには、ひと株の老いた桜の樹が立っていた。とある男と女にとっての、想い出の樹だった。

 男は百姓家の三男坊だった。東京の大学へ行かせてもよいが、医学部以外はまかりならんと、親から申し渡された。父親にとって息子が東京で一人前になるとは、医者になることだった。昔はそんな親が珍しくもなかった。
 女も百姓家の出で、男兄弟四人に挟まれた一人娘だった。女学校を出てすぐに、男に嫁した。戦時中のこととて、男が近ぢか出征することになり、独身のままでは可哀相だとの計らいから、親と親戚とが勝手に決めた結婚だった。新婚生活などはなかった。敗戦後、復員帰郷する男を駅へ迎えに出た女は、痩せこけた兵隊服姿の男たちの群を眼にして、どれが夫なのか視分けられずに困ったと、後年まで回想した。

 戦時中から敗戦直後へかけての、無給インターンだの若手医局員だのといった医学徒たちの貧乏は凄まじいもので、資産家の子弟でもない限りは、明日の飯とは云わず今夜の飯にも窮する暮しだった。男と女はよく耐えた。ようやく医者らしい暮しのかたちが見えてきた昭和三十三年、二人は大借金をしてこの地に、生れて初めて自分の家を持った。往来に面した塀ぎわに、身の丈に足りぬほどの、ヒョロッとした桜の苗を植えた。花を咲かせるほどにまで育つもんだろうかと、半信半疑だった。

 ご近所のかたが、今年も咲きましたねと、声をかけてくださるまでになった。道を訊ねられたかたが、ほれ、あの桜の樹のある家の前を通ってと、ご説明くださるようにもなった。壮年期の樹は、文字どおり爛漫と咲き匂うといった豪快な風情を見せた。
 樹齢およそ七十年、近年では禿げちょろけの枝ぶりに、けなげに花を咲かせ続けているといった趣を呈していた。根元近くの幹にはウロが生じ、中央が空洞化した箇所も発生した。男と女はとうにこの世を去ったが、息子が独り、時おり桜樹を気にかけるていどとなった。

 
 その老樹がある日突然、根元近くの、ちょうどウロが生じていたあたりからバキリと折り倒された。往来を通過しようとした超大型トラックが、頭を枝先に引っかけたまま過ぎようとして、メリメリと引きちぎるかのように倒したのである。
 地元交番と目白警察署とから、警察官がなん名も来た。ドライバーから事情聴取し、建屋や塀の損傷具合を調べた。ブロック塀が危ないとのことだ。人身事故ではないので、事故報告書に必要な項目さえ取材できれば、あとは民事不介入。損害修復については、トラック会社と被害者との相対で済ませるようにと云い置いて、引揚げていった。
 東電と関連会社とから、調査員や技術者がなん名も来た。電線や電柱に損傷はないか、ブレイカーやメーター類に支障はないかを調べる目的だ。倒木を処理しないことには調査ができない。樹木処理と修復のためにネットワーク工務店に連絡してくれた。
 急なこととて、長らく待った。キーパーソンらしき小工務店社長が到着して、現場を観察した。職人衆や車輛や機材を調達すべく、なん本もの電話を忙しくかけ続けた。またもや長らく待った。

  
 職人衆の第一陣が到着した。とりあえず持合せた電動のこぎりを取出すと、脚立のてっぺんに立って満開の枝を払い始めた。やがてクレーンを搭載したトラックが到着した。太枝が落下する危険を回避すべくクレーンで吊ってから、本格的に電動のこぎりが躍動し始めた。
 あたりに響き渡るすごい音量だ。予定した工事であれば、短時間ながらお騒がせいたしますとご近所に挨拶廻りすべきところだろうが、急なこととて手が回らない。

 
 太いも細いも、枝という枝が片づいてしまうと、東電の面々が電線や関連設備の点検を始めた。幸いにして、電線および電気系統は傷を負わなかったようだ。東電関連会社の技術員たちは潮が引くように引揚げていった。カスタマーサービスの調査員二名だけが残って、工務店社長と打合せを続けていた。
 職人衆の仕事だけがまだ残っている。枝は済んだとして、あとは幹である。これもクレーンで安全を確保してから、電動のこぎりで一気に片づけてゆく。人の背丈の三倍はあったかと思われる幹を、三回分割に伐り分けて始末してしまった。あとは切株と地中部分が残るのみだ。いくらなんでもその部分は、事故との因果関係はあるまいから、当方の担当となろう。
 樹齢七十年と云ったって、人手と技術と機械と重機を注ぎこめば、ものの四十分で目鼻がついてしまう。呆気ないもんだ。


 開花宣言してから二日で三分咲き報告。一週間すら経たぬうちに満開宣言だ。そうなった時分には花の陰で若葉が活発に萌え出ている。おやっ、散り始めたぞと思ったが早いか、かすかな風にも花びらが雪のように舞い散る。その速さと呆気なさを、儚いなんぞと称して約束事のごとくに愛でる。私もさように感じ、口にしてもきた。
 だが考えものだ。満開に咲き匂った樹木が、満開のままに、実動わずか小一時間ですっかり片づいてしまう。突然のように消えてしまった。このほうがよっぽど儚いのではあるまいか。


 まだブロック塀の安全点検、ならびに必要な措置が残っている。拙宅は依然として、立入禁止区域である。
 その内側で、一夜明けた本日は、切株に向って光明真言と般若心経とを唱えるつもりでいる。かつて頼りなくもヒョロッとした苗木に自分らの暮しの投影を視て、想いをいたしたであろう、とある男と女の眼から見える処に赴くためにこそ、老樹は満開のままに始末されていったと、せめて思ってやりたい。