一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

一瞬の細部

 『夢声戦争日記』の昭和二十年八月十四日のの末尾は、こうなっている。
 「この放送は翌日の三時迄続いた。放送員は最後にしみじみとした調子で、
 ~~さて皆さん、長い間大変御苦労様でありました。
 とつけ加えた。私もしみじみした気もちでスイッチを切つた。」

 その日も朝七時半までに、B29 が二度上空を通過した。高射砲の音が轟くが、命中するはずもない。B29 は印旛沼方向へ去ったが、音はやまなかった。八時半にまた警報が鳴り、相模湾から一機やって来た。
 昼食時には家族が額を寄せて、深刻な相談となる。「いよいよ大変なことになるんですって。死ぬなら親子一緒の方が好いかしらん。」疎開中の息子を呼び寄せるべきだろうかとの相談だ。
 夢声は食後、考えに沈む。不治の病に苦しむ患者にさえ、安楽術を施すことには疑問がある。ましてや子どもは自然の成果であり、民族のまた人類の動かしがたい一単位である。親の知で、情で、意で、どうこうできるものではありえない。たとえば敵がやって来て、子どもたちをなぶり殺しにする場面が生じたら、私の手で殺してやろう。そうでもない限りは、家族に青酸カリを服ませるようなことはけっしてするまい。徹底抗戦論も自決論も、なにかにつけて耳に入ってくる時勢だったが、夢声の肚は決った。

 有楽町では、日劇前で女性が古本を売っていた。築地警察署は焼け残っている。頭山秀三の投宿先を教えてもらい、訪ねた。頭山満の三男で、筋金入りの国家主義者にして主戦論者だ。事ここに至ってもなお怪気炎だった。さすがに戦勝論ではなかったが、負けかたが問題だとの説だった。
 東劇には市川猿之助の看板がかかっていた。新橋演舞場は全壊だった。放送局の文芸部を訪ねると、原爆の話題で持ちきりで、今夜は全員に当直命令が出たという。副部長がつねにもない表情でやって来て、今夜六時からの演芸番組は中止だとのことだった。
 新橋駅へと向う途中で、顔見知りの情報局役人とすれ違った。
 「夢声さんにも大活躍してもらおうと、素敵な計画があったんですが、駄目になってしまいました」
 頭山秀三、放送局員、情報局役人の顔色や態度から、近ぢか時局が動くと夢声は直観した。この手で我が子たちを殺すことには、どうやらなりそうもない。

 夜九時のニュース放送で、明日正午から「重大発表アリ」と報じられた。国民全員して謹聴するようにと。ニュースの中ほどでも仕舞でも、念を押すかのように繰返された。
 九時半、敵機一機が銚子方面から侵入し鹿島灘へと海岸線を北上して去った。十一時に警報発令。慌てて灯を消した。福島方面に侵入した敵機はおよそ三十機で、本日の来襲は長引く模様と、十一時五十分の放送で報じられた。飛行場をピンポイントで破壊しているか、宣撫工作のビラを撒いているのだろう。いちいち対応するのも馬鹿らしくなり、度胸を据えて床に就いた。

 で、冒頭の「さて皆さん、長い間大変御苦労様でありました」となる。日付け替ってその日はもう、多くの人が回想文を残している八月十五日である。
 今日この一行を五回十回と繰返し唱えていると、私にはアナウンサーの内心が痛いほどに伝わってくる。その日の玉音放送の内容あらましについて、彼はいずれの筋からか聴き知っていたのだろう。むろん片言隻句たりとも口になどできようはずもない。それはそうなのだが、いやそうであるからこそ、重要放送に携わる一員として、どうしても聴取者に届けたい想いが彼にはあった。ともすると放送後に上司から叱られるかもしれぬギリギリの線で、機械アナウンサーではなく肉声をもって語る人としての道を、彼は模索し勝負したのではなかったろうか。

 過ぐる三月十日の日記には、こんな一文が挟まっていた。
 「今日逢つた罹災者風景で、一番私の胸を打つたのは、父親に連れられた、小さな男の児が、さも大切そうにヒョットコのお面をぶらさげている態であつた。」
 前夜から今朝へかけての大空襲と火災の跡を調べ歩くように、夢声は銀座から新宿へと、仕事場の模様を視て歩いた。浅草は消えたという。川向うは平らな焼け野原だという。山の手を目指して歩く人びとは焼け焦げた襤褸を身にまとい、眼に包帯をして、連れに手を引かれて力なく歩く。泣く子に手を焼いて抱きかかえる母親の背では、括りつけられたもう一人の赤ん坊がぐったりしている。
 小一日かけてまのあたりにしてきた街並と人びとの惨状は、『往生要集』絵巻もかくやと想わせる鬼と餓鬼の世界だった。そんな見聞の果てに、夢声の胸にもっとも哀れを誘った一瞬の光景が、父親に連れられた男児の手に提げられたヒョットコの面だったというのだ。文学の問題として申せば、こういうのを「活きた細部」という。

 東京大空襲については被災面積○○平方キロ、死者・行方不明者・被災者それぞれ○○万人と、現在ではおおむね明らかなのだろう。八十年近い研究の成果だ。が、それら正確なデータからは「活きた細部」はことごとく消える。溶ける。そして数値を漉し残すための網の目から脱落してゆく。一次資料もしくはそれに近い目撃証言のみが、わずかに語り続ける。
 「長い間大変御苦労様でありました」というアナウンサーの声も、ヒョットコのお面も、その他『夢声戦争日記』に書き留められた満載の「活きた細部」も、一次資料もしくは準ずるものだが、これらはいわば実録だ。現場を知らぬ後進が資料に想像力を接ぎ木して、新たなる「活きた細部」を創り出すことができれば、文芸創作となる。