一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

歌のわかれ

 『斎藤茂吉全集』全36巻(岩波書店、1973 - 76)。

 宇野浩二の神経衰弱がひどくなって、だれの眼にも療養が必要と瞭かになったとき、夫人から相談された広津和郎はまずもって、青山脳病院の斎藤茂吉院長に往診を依頼した。他の往診先の帰途、こころよく立寄ってくれた茂吉は宇野を丁寧に診察してくれたが、その場のもようを広津和郎は後年『あの時代』に書き留めている。
 「夜は、ゆっくり眠れますかな?」
 「はい。二時間も眠れば十分です。またいくらでも、仕事ができます」
 「それはよろしいですなぁ」
 病状を認めたくない強気の宇野をあやすように、茂吉は丁重な口調で問診したという。診察後、別室で広津は茂吉に今後の養生について指導を仰ぐ。
 「入院加療が必要でしょうか?」
 「さよう、入院なさるのが、よろしいでしょうなぁ」
 「なにか薬を、呑むべきでしょうか?」
 「呑んだほうが、よろしいかもしれませんなぁ」

 精神科医としての斎藤茂吉は、「ですなぁ」「でしょうなぁ」「かもしれませんなぁ」と、しごく控えめに用心深い物言いをする医師だったという。アララギ批判を十枚書こうものなら、茂吉による烈火のごとき反論が百枚返ってくると云われた、歌人茂吉のイメージとはだいぶ異なる。
 「薬を用意しておきますから、明日、病院へ取りにお見えください。さぁて、それまでどうするかだが、あいにく今、持合わせがないもんで……そうだ、私のをとりあえず」
 懐から薬包を取出し、「これでは多過ぎるから」などと呟きながら二枚の薬包紙に分けて包み直して、
 「奥さん、今夜寝る前と明日の朝に、これを宇野君に呑ませてあげてください」
 茂吉が帰っていったあとで、広津は背筋が寒くなった。だれが視ても狂人としか見えぬ今の宇野に処方する倍量の薬を、斎藤さんは日常的に呑んでおられるのだ。

 本職は精神科医で、和歌は飽くまでも余技であると、斎藤茂吉は書いている。が、息子の北杜夫は、父の関心の九割は文学にあったのではと推測している。茂吉長男にして北杜夫の兄である医師の斎藤茂太は、また違う見解を述べていた。いずれにせよ、そうやすやすとは説明のつかぬ、巨大な人物である。
 若い時分に出逢った私の先達には、いく人かの茂吉崇拝者があった。教示を給わり影響を受けた。私とて茂吉を読まいでかと奮い立つ瞬間もあった。おりしも全集が刊行されることになり、書店に予約して毎月配本を受けた。が、なまじの心掛けで読めるような相手ではなかった。
 歌集は最初の『赤光』『あらたま』、最晩年の『白き山』『つきかげ』をかろうじて読んだ憶えがあるが、ほかは記憶にない。卒業論文に必要で、柿本人麻呂源実朝についての論考と、歌論の若干を読んだ。他は手着かずのままに拙宅書架にて埃を被って、半世紀を経過したことになる。

 『斎藤茂吉全集』(全巻揃い)を古書肆に出す。梶木剛『斎藤茂吉』(紀伊国屋新書、1970)を付ける。
 ただし中野重治斎藤茂吉ノート』(筑摩叢書、1964)は残す。また『折口信夫全集』は残す。