一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

想い出深き


 「雑誌『近代文学』派というのは、左翼白樺派だな」
 先輩にして恩人でもある、小説家の夫馬基彦さんが、ある昼休みの講師室でお茶を飲みながら、ボソッとおっしゃった。むろん冗談半分にだが、言いえて妙でもあると、聴いていて思った。佐々木基一本多秋五あたりが念頭にあっての一言だったろう。平野謙をも含むかもしれない。

 夫馬さんからは文学全般についてずいぶん教えを受けたが、ことに連句(歌仙)を教わった。夫馬宗匠による捌きのもとで、かなりの歌仙を巻いた。私以外は英文学者とジャズ演奏家で、連衆四名は月に一度、小料理屋の座敷に集った。
 なにせ酒と雑談が七で俳諧が三の愉しい一夜だから、一巻を巻くのに何か月もかかった。
 夫馬さんはかつて、真鍋呉夫宗匠のもとで歌仙修業したとのことだ。詩人の那珂太郎、映画監督の野田真吉、それに佐々木基一という、ものすごい顔ぶれの座で、夫馬さんは最年少の連衆だったようだ。大編集長の寺田博が加わった時期もあったろうか。
 その時期に佐々木基一の人となりに親しく接し、深く理解するところあったがゆえに、「左翼白樺派」の一語が口をついて出たのだったろう。

 安岡章太郎の回想にはこうある。日ソ友好の企画で佐々木基一を含む一行とソ連旅行する機会があって、先方世話人から、見物場所の希望を訊ねられた。安岡は内心咄嗟に、レーニンの跡地というような希望が佐々木さんから出たら困るな、と思った。ところが佐々木からは、チェーホフのコレコレが観たいとの希望が出て、ほっとしたという。まだ『私のチェーホフ』が刊行されるより前の噺である。

 戦後文学派の文芸批評家、若き日にマルクス主義に熱中した世代の批評家、ということにいちおうは分類されようが、そちら方面から佐々木基一に接近すると、とんだ見当違いをすることになる。理論一辺倒の頭でっかちな理解に了ってしまいかねない。詩人的で植物的な(動物的でない)、柔らかい心の持主としての側面をすくい取れぬままになってしまうおそれがある。
 チェーホフを愛読し、堀辰雄に親愛の情を示し、義兄(夫人の兄)原民喜について繰返し書き続けてきた、むしろ佐々木基一の生地に沿った側面を、尊重しなければならない。

 ルカーチの文芸理論や社会主義リアリズム論の翻訳・紹介者であり、戦後文学派の批評家ではたしかにある。が、昭和三十七年には『「戦後文学」は幻影だった』を書いて、いち早く次の局面へと歩を進めようとした人だ。社会思想・政治思想の側面よりは、芸術前衛としてアヴァンギャルド論を展開したかった人だ。
 雑誌『近代文学』派同志たちとの絆はさぞや深かろうが、また一面では、花田清輝岡本太郎とともに語られるべき人だ。「近代的自我の確立」といった日本近代小説の縦軸から外れて、もっと自由に(勝手に)書こうとした小説家である石川淳に、なみなみならぬ共感を寄せた批評家でもある。
 新しい表現方法の模索という観点から、映画論も多い。映画作品批評ではない。表現方法論だ。佐藤忠男らと映画事典の編集・執筆もしている。新興ジャンルとしてのテレビをも論じている。

 その晩年、処女小説『停れる時の合間に』がまとまった。『近代文学』創刊当時に連載開始されながら、半世紀近くも中絶されたままだった大長篇だ。題名はもちろんプルーストからの着想だったろう。
 命あるうちにこれだけは形にしておこうと、渾身の力が注がれたものだろう。埴谷雄高の『死霊』の場合と似ている。若き日の構想と半世紀後の完成形とは、多くの点で異なっているだろう。当然だ。
 刊行当時、週刊の書評新聞にコラムを持っていた私は、これを採りあげぬわけにはゆくまいと、昼夜突貫で読みあげて、翌週の記事にした。アンタ、これを一週間で読んだのと、編集長から呆れられた。自慢噺ではない。それほどに、もはや戦後文学が取沙汰されることは少なくなっており、是が非でも採りあげねばと力み返る時代錯誤の批評家は、周囲に見当らなくなっていたということである。
 想い出を反芻する機会はもはやあるまい。佐々木基一を、古書肆に出す。

 編著や共著を除けば、ほぼ全著作を所持していたはずだが、『私のチェーホフ』(講談社、1990)を残す。チェーホフ関連としてである。
 『石川 淳』(創樹社、1972)を残す。石川淳関連としてである。
 『鎮魂 小説阿佐ヶ谷六丁目』が二冊あったので、一冊を残す。『近代文学』同志との若き日の交流や、原民喜にまつわることがらが、回想小説とされているからである。
 『佐々木基一全集 Ⅹ』(河出書房新社、2013)を残す。全十巻全集の最終巻しか所持していない。「研究・補遺」篇だ。佐々木基一について書かれた諸家の文章が、大量に集められてある。真鍋呉夫宗匠による連句の座の模様も収録されてある。『近代文学』連載の初出『停れる時の合間に』も収録されてある。