一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

筆跡

 平野謙は、昭和文学の中盤・終盤の局面をリードした批評家の一人だが、ことに中盤(文学史で戦後文学と云われる)においては、同志とともに立上げた雑誌『近代文学』編集の一翼を担ってもいたわけだから、文筆者の肉筆原稿を眼にする機会も多かったことだろう。
 その平野謙が、晩年の気楽な随筆のなかで、筆跡について回想している。原稿の文字が達筆だった筆者として、福田恆存寺田透と、あと誰だったかを挙げていた。記憶が曖昧なのは、福田・寺田のご両名に対して、いかにもさようであろうなぁと、ありあり想像され、あとを忘れてしまったからだ。
 学識とバランス。幼きみぎりより聡明にして品行方正。画に描くかの秀才ぶりが、容易に想像できるお二人である。

 同じく『近代文学』編集同人の一人である埴谷雄高は、回想随筆のなかで、花田清輝の原稿を初めて眼にしたときの驚きについて、触れている。
 一点一画をも揺るがせにしない丁寧きわまる楷書で、消去も訂正書直しもない。しかも筆が走る箇所も滞る箇所もなく、終始一定の速度で書かれている。第一稿を改めた清書原稿だとしても、異様な正確さと落着きである。

 私は指先が不器用で、しかも手が固い。一年だけ幼稚園に通わせてもらったが、入園したとき、自分で靴の紐を結べなかった園児は、組で私ともう一人だけだった。
 小学校では、国語・算数はそこそこの成績でも、図工はつねに組の下位にいた。まずまずの国語といっても、読み書きならいいが、習字があった学期では、成績が落ちた。
 物を書くようになって、先輩から、こんなふうに教えられた。文筆に手を染めるということは、書家への道を断念することだ。原稿というものは、編集者が読み、文選工・植字工が読み、校正者が読む。売れっ子にでもなれば、挿絵画家だのカメラマンだのデザイナーまでが読む。美しい筆跡など無用で、たゞひたすら読みやすい文字。これ以外は必要ないっ。
 それだったら私にもできるかもしれぬと思ったのは、云うまでもない。今もって、小学生のように、背を丸め、紙の上へ身を乗出すようにして、カリカリカリと書いている。

 ところで、平野謙の回想随筆の末尾はこうだ。福田恆存寺田透の字は美しい。花田清輝の字は読みやすい。が、自分には筆跡を愛でる趣味はないから、揮毫を依頼する気も起きない。
 しかし正宗白鳥の字だけは…。下手といえば下手なのだけれども、この人には字を上手に書こうという気が、はなから微塵もない。そんなことはどうでもいいとする、白鳥その人が、そこにいるかのようだ。
 正宗白鳥の字だったら、なにか一つ、欲しいような気がする。

 この平野説に、ほんのかすかにだが、慰められた気がしたものだった。