一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

根拠

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埴谷雄高(1909-1997)
川西政明『評伝埴谷雄高』(河出書房新社、1997)より無断で切取らせていたたきました。

 追悼文の名匠はと問われて、即座に思い浮ぶ数名の文人から、この人が漏れることはない。

 追悼文の名篇が残るには、まず依頼されねば始まらない。他界されたアノ人に言葉を手向けるとなれば、そりゃあまず埴谷さんだろうと、編集者・出版人がたから思われねばならない。生前の故人と好ましい交流があり、故人の人となりと業績とを正しく評価でき、それらを魅力的に再現できる表現力において、信用されねばならない。

 魅力的に再現するとは、故人の生涯の核心部分を、おゝかたの人より深く摑み、しかも表現されてみれば、なるほどさようであったか、さように相違あるまいと、読者を納得させる力があるということだ。
 故人のみならず追悼者の生涯もまた、読者の眼前に晒されるに等しい。追悼文はまさしく独立芸の一分野と申しても過言ではない。

 埴谷とは盟友の平野謙が、こんなふうに云ったことがある。
 「批評家ってもんは、本職の作家論や文学史研究だけをやっていられゝばオンの字だが、それでは顎が干上る。さまざまなホマチ仕事で身過ぎしてゆかねばならない。文芸時評・新刊書評・解説・推薦文・追悼文・選考選評その他」
 どこが違うんだと、ご経験ないかたには思われてしまいそうだが、じつはこれらホマチ仕事にはそれぞれにちょいとしたコツが必要で、いわば独立した別個の芸なのである。
 平野謙文芸時評と解説における卓抜な芸をもって世に聞えたが、埴谷雄高は追悼文においてだれにも真似のできぬ芸を披露した人だ。ちなみに平野謙に寄せた埴谷雄高の追悼文も、見事なものだ。

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埴谷雄高『戦後の先行者たち―同時代追悼文集』(影書房1984

 あれこれの著作集に散らばって収録されていたエッセイ類から、追悼文だけを寄集めた一冊だが、かような出版企画が成立する著者は、そう多くはない。

 たとえば福永武彦への追悼。一見したところ、作風も芸術的美意識も、思想的立場も党派性も、若き日に仕込んだ基礎教養の分野・方面も、両者に共通するところはない。が、福永武彦文学に対する埴谷の理解には、納得がゆく。両者に共有されてあるのは、結核の長期療養だ。
 抗生物質開発途上の時代、療養の手立てはたゞ安静と滋養と換気のみ。厳冬にも窓は細く開けられたまゝ、純白とは程遠く薄汚れた白い空間に、二人はそれぞれ何年も横たわっていた。
 幽体離脱(というような、お手軽で便利な術語を埴谷は用いてないが)のごとき心的現象が起きて、天井の隅から自分を視おろしている、もう一人の自分が現れる。毎度々々現れて、しまいには寝ている自分以上の現実味をもって、あたりを眺めるようになってゆく。
 死神(というような、お手軽で便利なフォークロア語彙を埴谷は用いてないが)の眼差しで自分の周囲に進行する日々を眺める習慣がついてゆく。

 僥倖のごとく治癒した後の福永作品において、作中事件も人物も、ことごとく埴谷雄高の関心の外にあるにも関わらず、描かれかたの核心にいかなる視線が駆使され、作用しているかは、埴谷にとって一目瞭然だったようだ。

 また花田清輝への追悼。まさしく同時代人と申すべきか、思想信条の多くを共有しながら、思考回路というか方法において対照的で、しばしば鋭く対立。論争をも繰返した間柄である。敵を知り己を知らば百戦して危うからず(原典『孫子』の用字はまったく異なる)ではないが、埴谷による花田理解は、いつ読返しても新鮮だ。

 この件については、やはり埴谷の盟友のひとり本多秋五による『物語戦後文学史』における分析が思い出される。
 「昭和一桁から十年ごろの、とびっきりハイセンスな新しもん好きで、映画やミステリー小説も大好きという洒落者大学生が、昭和十年代の暗い時代を独り鬱屈して通過するなかで、独自に発酵してだれにも似ていない芽を吹いた。花田清輝埴谷雄高は、私(本多)には、よく似た存在と見える」

 なるほど、雑誌『近代文学』盟友のうちでも、もっともゆったり悠然と歩いた本多秋五から視ると、個性ひときわ強烈な両雄も、さように見えたか。学ぶもの多い。
 福永にせよ、花田・埴谷にせよ、表現されたものの表面でも主義主張でもなく、思考方法の特質や美意識の根拠を問えということだろうか。
 埴谷雄高本多秋五追悼文は、残っていない。本多さんのほうが、長生きなさったのである。