一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

左手

 あれから半年。顔かたちの記憶は薄れてきたのに、この左手の人差指が、彼女を憶えている。忘れられない。だからその女に、会いに行く。島村がトンネルの向うへと旅立った理由だ。
 左手が、女になにをしたというのだろうか。乳を揉んだか、股間を探ったか。感触が濡れているというのだから、また指先を鼻につけて匂いを嗅いだというのだから、それ以上のことをしたのだろう。この男は中指からでなく人差指からか、という問題ではない。親指から入る男もある、などという問題ではない。「左手の」という問題である。謎めいた一行だ。

 島村は左利きだったか。作中に証拠を探してみた。たとえば取落した食器を咄嗟に左手で受けるとか、ふいに飛んできた虫を左手で払うとか。ない。
 ちなみに、映画人たちはどう解釈したか。豊田四郎版は島村左利き説で、酌されて盃を左手に持ったり、煙草を左手の指にはさんだり、池部良にかなり不器用な演技をさせている。大庭秀雄版はこの件無視説で、木村功は頻繁に煙草を吸うが、すべてマッチ箱を左手に持ち、マッチ棒を持った右手で擦っている。
 島村は並の右利きだろう。決定的とまでは申さぬが、有力と考えられる場面がある。

 問題の一夜。宴会の席を脱けた女(のちの駒子)が、悪酔い状態で島村の部屋へ転がり込んでくる。もたれかかってくる女を、島村が受止める。気を取直すような口ぶりに島村が腕の力を抜くと、女はまたぐたりとなる。支えようとした島村の手が、思わず女の懐へ入った。
 女は両腕をかんぬきのように組んでその上を抑えたが、抵抗はせずに島村の掌にまかせた。「島村の掌のありがたいふくらみはだんだん熱くなつて来た」んだって。

 島村の手は、まさか袖口から入ったわけではあるまい。衿の胸元から入ったのだろう。女の髪が島村の頬で押しつぶれそうだというのだから、横ざまに抱き支えた体勢になった彼の手が、着物を着た女の胸元に入るとすれば、左手では逆手となってしまう。女の着物の衿とは、そうなっているものだ。男が背後から女の両肩を支えていたと想定してみても、左手ではアクロバティックな体勢で遠回しに入るほかない。どう考えても、ここは島村の右手が入ったのだ。
 にもかかわらず、半年後に列車の座席で、彼は左手人差指の匂いを嗅ぐことになる。

 手が女の胸元から入ったあと、当然ながら島村は彼女を求める。
 「いけない。お友達でゐようつて、おつしやつたぢやないの。私はさういふ女ぢやないの」
 女の自分に向って、芸者を紹介しろなどと無粋を云った男への、いくぶんかは意趣返しだろう。昼間はあんなエエカッコしたくせに、というわけだ。だがほとんどは、自分自身への言いわけである。
 ――「私が悪いんぢやないわよ。あんたが悪いのよ。あんたが負けたのよ。あんたが弱いのよ。私ぢやないのよ。」などと口走りながら、よろこびにさからふためにそでをかんでゐた。

 だそうです。十代なかばで東京へ奉公に出て、酌婦稼業やがて妾身分。金輪際こんな生きかたから足を洗おうと、この町へ流れついてからは身持ち堅く、身辺小ざっぱりと暮してきた。だがすでに開墾された肥沃な肉体をもち、男の料簡にも十分思い巡らせることのできる、ニ十歳の女性である。
 この濡れ場は、禁欲生活の果てに訪れた彼女の炸裂、といった場面である。

 ところで、「そでをかんでゐた」で描写は切れ、段落改行。数時間経っての明けがた、きぬぎぬの別れということになっている。まことに素っ気なく、章分けどころか行空けすらない。俗に云うクンズホグレツは、一切省略されている。だがそこでは、どんな按配だったのだろうか。
 齢の差はどうあれ、閨事の手なみとなれば、島村など駒子の敵ではあるまい。ましてや何日か山を独り歩きしての帰りしなに人肌恋しくなった程度の飢えと、命懸けの禁欲破りとでは、はなから相手にも勝負にもなりようがあるまい。しばし袖を噛んでいたのち、灯を落してからの局面は、駒子主導・島村受身で進行するほかはなかったろう。
 上下になろうが横になろうが、おもに右手を用いてリードしたのは、女のほうではなかったか。とすれば、島村の右手さらに右半身は、肉体の重なりによって封じられてしまう。せめても女の湿り気を探るとなれば、左手にて応戦するしかなかったことだろう。

 いく晩かの逗留に、いく度かの閨事はあったことだろうが、初回の印象はどうしても残る。顔かたちの記憶も薄れてきた半年後の再訪にさいして、愚かしいとは承知で、左手の人差指を鼻先へ持ってゆきたくなった島村の、匂いと感触の記憶が、じつは登場人物たちについての案外多くを語っている。

 記者さんや、こんな噺、本当に聴きたいのかねえ。エロ噺ですぜ。もっとも作家は本気で書いちゃいるんだが。
 それに川端らしい抜け目のない伏線。こまっかい撒菱や石つぶてまでいちいち拾ってたんじゃあ、埒が明きませんぜ。そういうことは、賢い読者の皆さん各人の、お愉しみってことで、いゝんじゃありませんかね。
 そもそもの発端が、徳田秋聲『縮圖』を引合いに、小説の形って噺でしょうが。そういった噺でまとめるってことで、どうだろうかねえ。いや、明日にでもさ。