一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

足技

 トンネルの向うは雪に閉されていると承知で、冬の温泉場へ出掛けた島村という男、じつはこれが二度目の温泉場行きだった。

 最初は半年前のこと、一週間ほど山歩きしての帰りしな、東京へ直帰するのも味気ない気がして、いささかの旅情をもとめ、いやあけすけに申そう、女の息や肌が恋しい想いがあって、ふと立寄ってみたのだった。
 その旅館で、打てば響くように言葉が返ってくる、いかにも機転の利く女と、出会った。その時はまだ、駒子ではない。駒子は芸者に出てからの源氏名で、このときはまだ、たんに「女」と称ばれている。踊りと三味線を修業する女性で、師匠の家にもう長く同居して、今ではその家の大黒柱。村にもすっかり溶け込んで、知らぬ者はないという。
 今は素人とはいえ、どうやらただならぬ来歴の持ち主と見えて、座持ちも客あしらいも堂に入ったもの。客が立込んだときや広間に大宴会が入ったときには、助っ人に駆けつけ、なまじの芸者衆より評判だという。

 島村は裕福な育ちで、幼いころから歌舞伎や文楽に連れていかれたらしく、長じて正業に就くでもなく、邦楽や日本舞踊の解説・評論などについて売文などしていた。その分野に余人なき頃で、いっぱし権威者気取りの時期もあったようだ。
 が、やがてその分野に、学識もあり筋の通った研究を重ねてもきた本格的な評論家が顕れると、霞んでしまうのも当然。そこで島村は、フランス語に多少親しんでいたのを武器に、西洋の舞踊事情の翻訳紹介などに筆を伸ばして、己が居場所とした。第一人者といっても、なんのことはない日本に二人目が見当らぬ世界の男だ。

 映画豊田四郎版では、島村があまりに学識人臭い。池部良が宿泊する部屋の机上に、フランス語の原書や辞書が開いてあったりするが、島村はそういう男ではない。
 怪しからぬとは申さない。映画はそれでいい。ただ原作小説は、そうなっていないと云うまでだ。池部良より、また大庭秀雄版の木村功より、小説の島村はずぅ~と俗物である。作家は、そう描いている。

 さて島村は初対面の女に、芸者を紹介してくれないかと頼む。差し向いで三味線を肴に端唄のひと節も唄おうというのではない。同衾してくれる女はないかと、訊いているのだ。それを「女」に頼んでいる。云い草が振っている。
 ――君とは、友達でいたいんだ。今度家族と来るとき、妻の話し相手にもなって欲しい。だから、だれか紹介してくれないか。
 どうだろう、この口説き文句は。新宿のナンパ師に読ませたら、ウケル~ッ、腹を抱えられること請け合いだ。が、それが島村である。女の私にそんなこと云うなんて、あなたって、イヤな人ねえ。女の反応は、一応当然だ。

 だがこの女、眼の前の男がさほど嫌いでもない。あまりに正直なんだかそれとも馬鹿なんだか、捉えどころのないなりふりに、むしろ興味を抱いた。これまでさんざん苦労させられてきた男たちのこすっからさと較べたら、むしろ可愛げすら覚えさせる無邪気さだ。
 「あなたってイヤな人ねえ」「変な人ねえ」「馬鹿ねえ」、以下全篇にわたって、彼女は口癖のように、なにかにつけて島村に向って云い捨てる。川端が表現に困って、反復症に陥っているわけではない。そう云い捨てながら、わずかずつ島村をわが身に引寄せてゆく、女による言葉の足技である。

 で、ある夜の出来事となる。中庭を挟んだ向うの広間では、宴会が催されていて、彼女も助っ人に出ている。途中脱け出してきた彼女は酩酊していて、島村の部屋を覗き、いたのね、帰っちゃ駄目よ、ひと稼ぎしてくるからね、てなことを云い残す。むろん島村には、急いで宿を引払う気などない。
 しばらするとまた、廻り廊下に小走りの足音がして、さらに酩酊した彼女は、いたのね、となる。
 ここはちょいと面倒な場面で、川端一流の伏線が忍ばせてあり、それを解かぬまま読み飛ばすと、月並みで舌足らずな、むしろ呆気ない場面となってしまいそうだ。

 作品冒頭の列車内、時系列で申せば、問題の一夜から半年後。二度目の温泉場行きの、島村の動機(というか内心の欲望)に関わる箇所だが、こうある。
 ――島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会ひに行く女をなまなましく覚えてゐる、……この指だけは女の感触で今も濡れてゐて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのやうだと、不思議に思ひながら、鼻につけて匂ひを嗅いでみたりしてゐたが、……

 ときに記者さんや、ここからはバレ噺なんだが、いゝのかね?
 川端ってのは、どうにもエロくってねえ。こんなもんを生徒さんの課題図書にする先生もあると耳にしたが、解ってんのかねえ。いや、その先生がさ。
 ま、ひと息入れて、明日ってことにしましょうや。