一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

暗かったころ


 立松和平の本が手許にあんがい少ないのに驚いた。初出雑誌で眼を通してしまい、単行本刊行のさいには、ま、いいか、と思ってしまった場合があったと見える。

 初めて会ったのは、『早稲田文学 学生編集号』が発行される数か月前のことだ。第七次『早稲田文学』初代編集長立原正秋の後を継いだ、二代目有馬頼義編集長による新機軸のひとつで、「若いモンに編集をすべて任せた一号を出してみようじゃないか」とのアイデアだった。一九七〇年ころのことだ。
 編集部には数名のアルバイト学生がいたが、なかの主将格が立松だった。一号だけの臨時編集長に指名されたわけだ。まだ政治経済学部に籍があったかと思う。

 『早稲田文学』が小説原稿を募集しているとの情報を耳にしたが、私はまだ仲間と立上げた同人雑誌を、ようやく二冊か三冊出したていどだった。しかも志は小説にはなかった。で、仲間の作品を推薦応募させた。同人誌主催者は、仲間の作品をご推薦くださいとの触込みだったのである。応募作品は採用されなかった。が、それを機に、立松と顔見知りになった。
 『学生編集号』には、後年東京散策の達人として好著を連発する冨田均や、後年白水社の名編集者となる鶴ケ谷真一の小説が載った。一読して、なるほどわが仲間の作品は落ちると納得した。

 あい前後して、編集長を囲む若者たちの顔合せ会といった催しがあった。会場は喫茶店を借り切っていた。フロア中央に大胆な段差のある、奇妙な空間だった。有馬頼義という有名ミステリー作家を初めて視た。保昌正夫という横光利一研究の第一人者の肉声を初めて聴いた。会場の手配やら進行やらに甲斐がいしく働いているのが、立松和平だった。
 集った「若手」のなかに、冨田均さんがいた。三田の人なのに岳真也さんがいた。ともに能弁だった。黙っている連中のなかに、あと誰だれがいたのだろうか。福島泰樹さんは、荒川洋治さんは、いたのだろうか。当時はまだ顔を視知っていなかったから、判りようがなかった。立松だけは、はっきりと記憶した。

 立松との想い出はいくつかあるが、今は措く。とにかく率直で誠実で、正直な男だった。ものすごい馬力で小説を書く男だった。
 ある夕方、四谷三栄町のアパート一室の早稲田文学編集室へ、立松を訪ねた。飲むか、芝居を観るかの約束でもあったのだろう。奥から出てきた彼は、原稿用紙の束を手にしていた。便箋の大きさに枡目が印刷された原稿箋というやつで、薄手の紙だ。二三センチもの束になるということは、かなりの枚数である。
 「これ、みんなボツだよ」
 有馬頼義編集長が原稿を観てくださるらしい。苦笑気味ではあったが、恥じるでも照れる様子でもなかった。
 十日か半月かして、また訪ねる機会があった。その日も彼は、原稿用紙の束を手にして出てきた。
 「だってこの間、ボツ原稿を返されたばかりじゃないか」
 「あれ以降のヤツだよ」
 どれほどの量を、この男は書いてるのだろうかと、内心私は舌を巻いた。

 彼は新人賞受賞を機に華ばなしく登場した作家ではない。ひと眼を惹く派手な手柄を立てたこともない。地道に書き続けるうちに、いつの間にか小説家となった人だ。ということは、最初から小説家だったのだ。二百冊をゆうに超える著書のほんの何割かしか知らぬ私ごときが、決めつける筋合いではないけれども。
 正直で骨太な文学を読返す活力は、もはや私には残っていまい。立松和平を古書肆に出す。彼の作品系譜にあって重要な長篇と思える『歓喜の市』は、発表時に初出雑誌で読んだ。半年間に短期集中連載された『すばる』も、付けて出す。
 想い出としてほんの少々を読み返したくなることも、あるかもしれない。大部な『立松和平自選短編集』(スコラ)一巻のみを残す。

 立松に引合せてくださったのは、後藤明生さんだ。他にも後藤さんからは数かずのご恩をいただいている。
 後藤さんが埼玉県の団地にお住いのころ、わが同人誌仲間の一人がたまたま同じ団地に住んでいたご縁で、後藤さんを囲んでお噺を伺ったのが最初だった。二冊の短篇集『笑い地獄』『私的生活』を上梓されたばかりの新進作家であられた時分で、最初の書下ろし長篇『挟み撃ち』も最初の連載長篇『四十歳のオブローもフ』も、まだ刊行されてはいなかった。私はまだ大学入学前で、同人誌の創刊号を出したばかりだった。

 大学入学後に、『早稲田文学編集委員の後藤さんと、再会した格好となる。近ぢか『学生編集号』を出す。原稿を募集しているから、応募してはどうかと、お奨めくださったのは後藤さんである。以降も立松と私以下数名で、後藤さんの尻尾にくっついて、いく度となくタダ酒を飲ませていただいた。
 「立松は書いてばかりいる。多岐は読んでばかりいる。足して二で割るという具合にはゆかんもんかねぇ」
 つねに高笑いにまぶしながらも、厳しいご指導だった。以後五十年かけて確かめたところによれば、立松の勉強方法のほうが正しかった。文学的に考えるとは、書きながら考える、もしくは書くことを通して考えることだ。

 後藤明生という作家については、確かめてみたい点が残っている。著作にはまだ手が着けられない。が、後藤さんと坂上弘高井有一古井由吉の四名が共同編集した季刊文芸誌『文体』(平凡社)を出す。古書肆には申しわけないが、第三号が欠けた、創刊号から第七号までの六冊である。今の眼で目次を眺めると、溜息が出るほど豪華な顔ぶれが並んでいる。