一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

悲傷の文学

 高橋和巳が男子学生から競うように読まれた時代があったなんぞということを、現代の若者はおそらく信じまい。全共闘世代の一部学生にとっては、教祖的魅力をもった作家だった。

 最初に『憂鬱なる党派』を読んだ。話題の新刊だったという偶然に過ぎない。党派的政治運動と誠実にあい渉った青年が挫折する噺だ。命の次に大切だと思い詰めてきた原稿を、虚ろな気持で紙飛行機に折って飛ばす末尾の場面が、なんとも哀しかった。
 内容のみならず文体までもが、重苦しい作品だった。出世作『悲の器』から入っていれば、いくらかは印象が異なったのかもしれない。雑誌には『日本の悪霊』が連載中だった。これまた部分を読んでも、なにがなんだか解らない小説だった。完成してから通して読んでみると、解らなくはない小説だった。
 代表的作品をあらかた読んだところで、『邪宗門』が最高傑作だと判定した。実在する巨大新興宗教教団をモデルに、異能の開祖と怪物的な二祖とによる教団成立の過程を描き切った、重量感ある長篇だ。

 小説家としていよいよこれからと見えたとき、高橋和巳は大学人としての道へと舵を切った。作家ではあったが、中国文学者でもあったのだ。学者としての暮しを主軸として、小説は一日三枚ていど細ぼそ書いてゆきたいとの談話が発表された。
 「小説家はいいなァ、批評家は一日平均八枚は書かぬと、食ってはゆけない」
 文芸批評家の平野謙は慨嘆とも皮肉とも取れる感想を漏らした。

 満四十歳に届かぬ早逝だった。通夜の晩、同世代作家たちが二間続きの部屋に顔を揃える場面があったという。こちらの部屋では、大江健三郎柴田翔真継伸彦らが沈鬱な面持ちで言葉少なだった。襖の敷居を跨いだ隣室では、小田実開高健とが大声で豪放な会話を続けていた。「あの人たちは、気が滅入るということがないのだなぁ」と、大江健三郎は感嘆し、羨んだという。

 呪詛と悲傷の文学だ。敬愛はする。評価もする。が、もはや再読はできまい。古書肆に出す。
 書架に並んで、山田太一異人たちとの夏』と田村泰次郎の文壇回想録が一冊あった。名編集長寺田博の『ちゃんばら回想』『昼間の酒宴』があった。映画つながりだろうか『映画読本 成瀬巳喜男』があった。いずれもなんでここに並んでいたものか、いきさつに記憶がない。このさい併せて、出す。

 魯迅は別格として、さてその先、中国の近代文学へいかに入っていったものかと思案した時期があった。事典的手引きに眼を通したあと、茅盾(ぼうじゅん)に目星を付け、読みかけた。挫折した。中国語による文学の乾燥性というか、ある種ハッキリし過ぎる表現性というものが、翻訳をとおしてでも、自分に合わなかったのだと思う。後年、高行健莫言など現代文学をいささか丁寧に読むに及んで、自覚するに至った。
 いかにも鈍感だった。もっと早くに感づいていれば、距離の取りかたというか、読みかたの工夫もありえたのかもしれない。が、万事は遅きに失した。

 茅盾を古書肆に出す。『中国現代文学選集』(平凡社)も出す。『中国現代文学珠玉選』(二玄社)も出す。