一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

初荷


 当ブログの「古書肆に出す」シリーズをお眼になさってくださったかたから、だいぶ片づいてきたでしょうと、お声掛けいただくことがある。おかげさまでと、いちおう応えてはいる。が、あくまでも挨拶であって、実情はどこが進展したのかという状況だ。
 空間を圧縮して、身辺の店仕舞を加速させるためには、より核心部分に手を着けねばならない。

 昭和十年代刊行の、古い小説たちだ。紙質も印刷も弱いので、ほとんどにグラシンを掛けてある。写真映りが悪く、背文字も表紙も判然としない。が、ここは保護優先だ。
 すべて鶴田知也の著作である。昭和十一年に『コシャマイン記』で第三回芥川賞を受賞した。第二回が受賞作ナシだったから、第一回の石川達三『蒼氓』の次に受賞した作品ということになる。圧倒的な武力で進駐してくる日本人と果敢に戦って、敗れていったアイヌ人英雄の物語を、情感を薙ぎ払った叙事詩的雄渾な文体にて描いた。
 歴史の敗者へ感傷的に寄添うでもなく、むろん武力的勝者を追認肯定するでもない、ただ相容れぬ双方の宿命の衝突として、正義なんぞ複数あることを描き出した傑作だった。
 初期プロレタリア文学の作家だったが、運動がナップ(全日本無産者芸術連盟)へと収斂してゆくなかで離れ、労農派と称されて、農民文学の色彩を強めた。キリスト教信仰と善意・良心の作家であって、都市労働者による暴力革命やら国家改造やらとは、毛色を異にする文学だった。

 ある時期私は、鶴田知也著作のコレクターだった。三十年前か五十年前かと問われても、返答に窮する。そのあたりのどこかだ。現在のような情報検索機能の存在しない時代で、古書店を巡って足を棒にするほかなかったのだが、鶴田知也を探しているという競争相手に遭遇したことは、一度もなかった。その後今日までに、鶴田に興味をもって調べている人には、二人しか出逢っていない。
 細切れに再利用した児童読物や注文に応じての翻訳数篇を除けば、鶴田全文学作品が、ここにあるはずである。鶴田訳による林語堂の長篇『北京の日』上下二巻もある。とはいえこれほどあったところで、ひと財産というほどでもない。文学史的には貴重このうえないものであっても、探し求める客がないから、値が付かない。ほとんどは知る人すらない過去の小説集だろう。
 『コシャマイン記』を読むだけであれば、『芥川賞全集』があり一巻ものの『鶴田知也作品集』がある。また何年か以前に、講談社文芸文庫にも入った。たしか北海道にゆかりある文芸批評家の川村湊さんが、解説を付けておられたと記憶する。
 にもかかわらず、ほかでも読めるはずの『コシャマイン記』だけが長らく稀覯本だった。稀に眼にする幸運に恵まれても、財布と相談せねばならなかった。後年復刻本が刊行されたようだ。むろん手許にあるのは、コンディションの悪さを理由に思いっきり値引きしてもらった初版である。

 じつは『コシャマイン記』以外にもう一冊、桁違いの稀覯本がある。文学事典にもウィキペディアにも出てこない本だ。『北方の扉』という短編集で、内容は既刊作品集に収録された短篇の寄集めだ。作品を読むだけなら必要ないかもしれない。が、ほんとうに必要ないかどうかを、自分の眼で確かめねばならない。問題はその発行所と発行地である。
 奥付によれば、発行日は「康徳拾壹年貮月貮拾八日」であり「定價 貮圓参拾錢」、発行所は「合資会社 東亞書院」その住所は「新京特別市日本橋通四十七」である。ちなみに配給元(今でいう取次店か)は「満洲書籍配給株式會社」とある。つまり満州国の首都にあった版元から昭和十九年に刊行された短篇集である。
 こんな本が今の日本に、いったいなん冊残存しているというのか。判らない。が、少なくとも一冊は、ここにある。この一冊についちゃあ、ちょいと骨を折った。

 文筆家としての鶴田知也を考える場合、三期に区分して整理するのがよかろう。第一期は昭和前半、すなわち戦前・戦中期で、小説家時代だ。第三期は昭和後半から晩年までで、山野草の画家、または植物画文集作家時代である。現在ではこちらのほうが知られているのではないだろうか。身近な植物や道端の野草を克明に観察して描き、また観察しながら歩く愉しみを伝え広める多くの著作を残した。趣味の書といおうか実用書といおうか。まことにもって心和む、美しき著作群である。
 こちらは私ごときが、集め尽すとはとうてい参らない。ごく代表的なものと、最初に草木画の世界へと踏み入った記念碑的小型本全三巻揃い箱入りと、色紙集の体裁をとった豪華画集一点とである。私にとっては、猫に小判の分野といえる。

 難敵は間に挟まる第二期で、戦後期すなわち昭和二十年代だ。農村復興と農業の未来を模索して、全国に酪農の普及を奨励して歩いた時期である。国土の荒廃や農地解放その他の新しい現実を眼にして、あらまほしき日本人と日本社会のヴィジョンを提示して歩いたということだろう。その熱心さは、変人・狂人扱いされかねぬほどだったという。
 逸話のひとつが、むのたけじの文章に残されてある。村の青年団に文化の匂いを感じて欲しくて、作家に講演を依頼した。異常なまでに酪農の普及に熱心な作家と聞えていた。
 「先生、今日はベコの噺でねえ噺を聴かせてくだせえ」
 「承知しました」
 講演開始なん分かは文学の噺だったのが、なにかのきっかけから牛が出てきて牛乳が出てきて、あとは仕舞いまで酪農の噺になってしまったそうだ。
 面白い先生だというふうに、むのたけじは好意的苦笑いとともにその場面を記録している。

 この時期の鶴田知也に、酪農あるいは農村改革についてのまとまった著書はない。が、刊行物はなん点かある。パンフレット、ブックレット、講演録、関係者への実用的啓蒙冊子ともいえる小冊子類である。
 手許には『酪農業の話』という九十ページほどのものが一冊だけある。秋田県農業會農政課により昭和二十三年に発行された、定価二十五円の冊子だ。中味は、飼料について、米と牛の違いについて、搾乳法について、設備について、飼料植物の栽培について。外国での成功例も紹介されてある。
 腰を据えて読み込めば、鶴田が想い描いた将来日本のヴィジョンが、あるいは掴み取れるのかもしれない。福岡豊津での中学生時代に、先輩の堺利彦葉山嘉樹からの影響で芽吹いた志が、家庭環境でもあったキリスト教信仰といかに結びつき、北海道の風土に眼を向けさせ、労農派から戦時日本を通過して、どういう経路でついには道端の野草の観察にまで到達したか。その精神史には、日本近代の歩みについての、途方もなく巨大な問題が反映されてある気も、しないではない。
 だがそれは、一介の文学読者に過ぎぬ私ごときが手を着けるべきことだろうか。酪農普及啓蒙問題に逢着して、私は鶴田知也研究を断念した。
 店仕舞を年次目標とする私の新年第一歩として、鶴田知也を古書肆に出す。