一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

ちょうどいゝ

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 東京には老舗の名菓・名品かずかずあれど、気取りのない、ちょいとした手土産といった進物で、しかも東京ならではの特産となると、はて思案に余る。と、昨日のブログに書いたところ、友人からご助言。そりゃ海苔だろう。
 あっ、そうか。とんだ迂闊だった。ご助言というより、ご叱正の一言と受取らざるをえなかった。

 たしかに海苔は、古くから東京湾で採取・養殖されてきた、文字どおり江戸前水産物だ。大森海岸から羽田へかけての海は、もともと江戸前漁業・水産業の本場だった。浅草海苔と称され、ブランド化しているが、この辺りが主要産地だったという。
 明治時代後半から、埋立てが進み、工業地化していった。大森・蒲田一帯は町工場の集合地域となり、京浜工業地帯(っていう言葉、今もあるのかしらん)の東京側の端っことなった。
 加えて、羽田空港の発展。一時は東京湾の水質悪化を招き、漁業・水産業は壊滅の危機かと懸念された。が、環境保全思想の高まりと第一次産業維持の観点とから、年月をかけて東京湾は水質改善。からくも江戸前漁業の一部は壊滅を免れたと聴く。

 日本航空350便事故、通称「逆噴射事故」が起きたのは、一九八二年(昭和五十七年)だった。福岡空港から発って、まさに羽田に着陸しようとしていた旅客機の機長にはうつ病治療の病歴があり、こゝ数日もたびたび、幻覚・幻聴をともなう被害妄想にとらわれていた。
 コックピットでは、管制塔からの指示を無視する機長の異状を察知した副操縦士による、再三の進言があったが、機長は無視してエンジンを逆噴射(急ブレーキ?)させた。機体は滑走路手前五百メートルの東京湾に墜落。二十四名の死者と百五十名近くの負傷者が出た。事故後に機長は、統合失調症と診断された。「逆噴射」「心身症」が流行語となった。

 墜落は朝八時四十四分だが、前日にホテル・ニュージャパンの大火事があったばかりで、消防・救急搬送・捜索等は混乱を極めた。海に投出された遺体の引揚げ作業に、時間を要した。
 やがて潜水夫たちの活躍により、亡骸が次つぎ、クレーンで海中から吊り上げられた。遺体には、まるでミミズの群が蝟集するかのように、東京湾のアナゴが絡まり着いていた。
 任務に携わった潜水夫たち・救急隊員たちは、その後長らく、寿司屋へ行ってもアナゴを食う気になれなかったという。

 それを聴いて私は、会田綱雄(1914‐1990)の「伝説」という詩を、思い出したものだった。湖から這い上ってくるカニを荒縄で縛り繋いで、山を越えて市場へ売りに行くことをなりわいとする、湖畔の民の生命観を詠んだ詩だ。
 神話的ではあるが、牧歌的要素は微塵もない、ひたすら怖ろしい詩である。
 戦争期を上海・南京に過した詩人は、揚子江沿岸の民衆が「戦争があった年のカニは脂がのって美味い」と云い慣わすのを聴いて、衝撃を受ける。日本からは、食通を自認する富裕人たちが、わざわざ上海までカニを食いに来ていた。
 この衝撃を、詩人は十数年温めて、ついに「伝説」一篇を書いた。

 ――わたくしたちはやがてまた
   わたくしたちのちちははのように
   痩せほそったちいさなからだを
   湖にすてにゆくだろう
   蟹はあとかたもなく食いつくすだろう

   それはわたくしたちのねがいである

   蟹を食うひともあるのだ

 今よりもはるかに、文学に真剣だった年ごろ、まず十五年ほどは、この呪文のような一行「蟹を食うひともあるのだ」に悩まされた。今もそれを超えたかと問われれば、完璧の自信があるとは申しがたい。

 しかし「真剣」には飽きた。
 羽田の海からは、佳い海苔が採れるという。老舗海苔店の高級ブランド焼き海苔になるのだという。成形のさいの切落しや、製造途中に発生したキズ物が、加工用に回るという。
 細切れになって袋詰めされた海苔が、「もみ海苔」なる商品名で、スーパーの棚に並ぶ。私が茹でた蕎麦には、これがちょうどいゝ。