一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

カタログ

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豪華カタログ。全ページに眼を通したことはない。

 「わずかばかりで、お手数なんですが……」
 「いゝえ、古くからのご愛顧ですよねえ」
 「はい、ご開店のときから私の両親が。こちらが建つ前は、東横百貨店がありましてね。向うは師範学校のグラウンドの金網。立教大学まで視通せました」
 担当の女性は憮然として、黙ってしまわれる。

 毎年、カタログが郵送されてくる。昨年の取引実績と過去の利用履歴名簿が同封されている。すでに雀の涙のお取引。ネット注文で済ますべき。とは思いつゝ、毎年催事場へと出向く。お使い物は決っている。たゞし内訳というか、詰合せ構成については、毎回しつこいほど吟味している。
 「同じ値段なら、小さいものにしときなよ。見映えに騙されちゃいけないよ。先様の使い勝手を想像しなよ」母の古い云いつけを、今も守っている。

 こと進物に関しては、流行に敏感は禁物。「あそこからは変り映えもなく、いつもアレ。たゞし品物は確かだ」が理想である。話題の新商品だの、最新流行だのは、はしたない。人間の軽さが目立っていけない。「変りない」が無事息災の信号となる。それが社会通念というものだ。

 大部なカタログの最後にまで眼を通したことはない。宝の持ち腐れ。というか無用の長物と努めて思いなし、あえて眺めないようにしている。もし眺め、想像し、考え始めでもしようものなら、時間がいくらあっても足りはしない。世の中にはこんなにたくさんの、商品というものがあるのか。婆ちゃんに見せてやったら、さぞ悦んだろう。いや腰を抜かすか。

 トワ婆ちゃんは、祖父の後妻だった。夫に先立たれた後は、義理の息子たち(伯父とその弟である我が父)をはじめ、家庭内に血縁者はなかった。身寄りの筋も遠く、伯父の家にいるしかなかったらしい。
 母屋からは渡り廊下で奥まった隠居部屋で、独り寝起きして、食事のときだけ母屋へと渡ってきた。ごく控えめで気立ての好い、小顔で小柄な婆ちゃんだった。伯父伯母夫妻からも、孫娘たち(私の従姉妹)からさえも、なにかと疎まれて、食事時間になると孫たちは、廊下のこちらから「オバーッ」と大声で呼んだ。

 婆ちゃんには、することがなかった。天気の好い日には、もんぺ姿に姉さんかぶりで、庭の草むしりなどもしたが、たいていは隠居部屋でひっそり過していた。
 この婆ちゃんが好きだった。たまにしか会えぬ私には、いつも優しく接してくれた。お年寄りというものは、こういう匂いがするものかと思った。

 こざっぱりと片づいた隠居部屋には、婆ちゃんの時間つぶしになりそうなものは、なにひとつ見当らなかった。正座のまゝ前屈みに丸まった姿勢で、鼻眼鏡を掛けてなにか読んでいた。
 あるとき見せてもらった。農協からの回覧ビラのような紙で、裏に細かい字で家庭料理の作り方が説明されていた。日付を視たら、一年近く前のビラだった。婆ちゃんはこれを、百回もそれ以上も、読み返してきたのだろうか。なんだかかわいそうで、哀しくなったが、子どもの私には、どうすることもできなかった。

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 あの時もし、このカタログが一冊でもあれば……。
 六十年経ったらね、婆ちゃん、日本はこんなふうに、なったんだよ。