一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

河の中から


 銭湯からの帰宅道。自販機の飲物片手にふらふらしたり、立ち停まってみたりするのが好きだ。

  躰の芯が温まるとは、生理学的にはいかなることなのだろうか。徒歩五分のお湯屋さんまで歩くのに、往きはマフラーをきつく締めつけるように巻いて、震える気分でぼやきながら歩くのに、帰りは平気で散歩気分だ。
 湯冷めして風邪を引きこむなよと自分に云い聞かせながらも、ついつい足どりがゆっくりになる。立ち停まったり、無駄歩きしたりする。

 この道は、かつて川だった。とある十字路中央には巨きなマンホールがあって、人も車も通らぬのを好いことに、鉄の蓋にゆっくり近づいてみると、暗渠のなかを今も絶え間なく流れる水音が聞えてくる。
 人通り車通りの絶えた時刻とはいえ、十字路の中央へのこのこ歩み出て、じっと耳を澄ませている老人を、もしもどこかでどなたかがご覧になられたら、なんと思われることだろうか。

 さほど大きくもないのに信号機が設置されている十字路がある。かつて交通事故が多発した時代があったからだ。
 西から東へ、古くからの一方通行路がある。目白通り新青梅街道から、巨きな交差点に引っかからずに山手通りへと抜ける裏道として、ドライバーさんがたに愛用されている。細くはあっても、著名交通路だ。昔はここに、小さな橋が架かっていた。
 南北に走る川っぷちの道など、人か自転車かせいぜいリヤカーが往来する程度の小道だった。それが川を暗渠にして、太い通りとなった。先の東京オリンピックを目がけて東京大改造の時分だ。太い通りになってみると、こちらが主線だとばかりに、安心して突っきる車輛が現れた。交通事故が多発した。で、信号機が設置された。

 その前には、角に小さな荒物屋さんがあって、小柄なお婆ちゃんが一人で店番していた。七厘や焼き網や、タワシやヘチマや、箒や塵取りほか、店一杯に日用品ならなんでも詰っていた。そこへいく度も、自動車が飛び込んだ。ぎっしりの商品に助けられたものか、お婆ちゃんに被害が及んだという噺は、耳にしなかったけれども。

 荒物屋さんが閉店したのは、さていつ頃だったろうか。その後、中華料理店となった。隣に小ていな寿司屋が店を開けていた時代もある。
 中華のマスターはなん年商売しても栃木訛りの抜けない人だった。気さくでお喋り好きな善い人だったが、お世辞にも、美味いとは云えぬ店だった。開店したころ、奥との仕切りのガラス戸を開けて「父ちゃん」と顔を出していた娘が、やがて嫁入りした。そこで子守をするのだと、マスターは引き揚げていった。
 ご夫婦二人だけの寿司屋の若い親方を、いつもお仕事ばかりではというんで、女将さんのお許しを得て、一夜新宿へ連れ出して豪遊したことがあった。店ではおとなしい親方なのに、カラオケは上手だった。いつまでも子ができなかった。人生を変えるといって、千葉県へ移っていった。

 この道は、今では町のメインストリートとなっている。交通事故はめったにない。リヤカーもサイドカー付き自転車もない。台風で水が揚ることもない。
 風呂上りの私は今も、河のまん中に立っている。今宵はなんだか、ココアな気分。