一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

納豆論

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 たかゞ納豆、されど納豆。

 なにとともに召しあがるかについては、愛好家それぞれに、けっして譲れぬ持論がおありのようだ。ネギは不可欠とおっしゃるかた。玉子を落してゆるゆるで召しあがるかた、その他。
 私はワサビを少々混ぜるだけ。高級はいけない。チューブ入りの練りワサビがよろしい。が、そこへ行き着くまでの研究については、今日は措くとして。

 いかにして召しあがるかについても、諸説あるようだ。熱あつの白飯に乗せて掻っこむという古典的食しかたから、パンや餅に乗せるかた、焼海苔で包むかた、味噌汁に流しこむかた。まだまだありそうだ。
 私はそのまゝ、一品として食べている。が、そこへ行き着くまでの研究についても、今日は措くとして。

 こねかた、掻き混ぜかたについては、いかゞであろうか。手早くあっさり混ぜて済ませるかたもおありだろうし、百回は混ぜるというかたもおられる。なかには、なんのおまじないか百八回とおっしゃるかたに、お会いしたこともある。
 私は平面百回、スリーディー百回の計二百回を原則としている。こゝで原則と申すのは、各メーカー・各商品によって、硬さが異なるため、加減が必要になるだからだ。常用品がたまたまスーパーの棚に品切れで、他商品を購入した場合には、手加減が必要という意味だ。
 こゝで硬さとは、むろん豆の硬さではなく、粘り気の強さ・頑固さのことだ。

 平面百回とは、器の真上から箸を突き入れて、時計回りに百回掻き混ぜる。時計回りに意味はない。たまたま右利きだから、手首がさよう動きやすいというまでのこと。
 次のスリーディー百回とは、左手に持った器を左右に揺らすように傾けながら、右手の箸を時計回り。これで納豆が上下に掻き混ぜられる。この五十回を超えたころから、納豆の姿が目立って変り始める。ネバが滑らかになり、微小な気泡を含みこんで、嵩が増す。計二百回に到達したときには、パックから器に移した段階より一点五倍くらいに嵩が増している。気泡が十分に含まれたのだ。むろんワサビも完全均等に混ざっている。

 白飯にも乗せず、味噌汁にも混ぜずに、一品として口中に入れる。噛むあいだ、存分に味わえるのはもちろんだが、呑込む段階で、また呑込んだ直後、味が鼻の裏へ逆流するように昇ってくる。これが美味いのである。ネバに気泡をたっぷり抱かせた効果だ。

 麺類を、音をたててすゝるのは日本人だけだと聴いた。音をたてゝ物を食うのは行儀悪いとされる国が、ほとんどだという。日本人の食事習慣は、世界から眉をひそめられていると、叱るかたがある。
 反対に、来日外国人さんのなかには、日本人のように蕎麦をすゝってみたいものだと挑戦してみるが、うまく行かないという声も聴く。
 これは行儀の問題ではない。麺類を口に入れるとき日本人は、一緒につゆを食べてきたのだ。呑込んだ直後に、鼻の裏へと昇ってくる出汁の香を愉しんできたのだろう。出汁の文化ゆえに発達した食事技法だ。料理食材に完全にからめてしまうソースの文化とは異なる。唐辛子や香辛料や乳発酵食品の文化とも。

 いずれが上品な、それどころか望ましい食べかたかを云々するのは、問題の立てかたが見当違いだ。郷に入っては、ではないが、音をたてることが不行儀とされる国へ行ったら、またさようなかたがたと同席して、さような食事をいたゞくときには、こちらが慎めばよろしいだけのことだ。その代り、来日外国人さんがたには、蕎麦はこうして食うと美味いですよと、出汁の味わいかたを教えて差上げればよろしい。
 唐辛子や香辛料や乳発酵食品文化のかたがたには、それぞれ日本人には想像つきにくい、味わいかたの極意があるのかもしれないから、教わって試してみたいものだ。

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 納豆も発酵食品ではあるが、その味わいかたは出汁文化の賜物かと思う。保存に失敗して、腐らせてしまった大豆から、偶然に納豆ができたと聴いたが、今となっては、大豆君、よくぞ腐ってくれました、と申すほかない。
 昔、ライブ後の気楽な打上げで盛り上る、ジャズ・ミュージシャンたちから教わった地口に、こんなのがあった。
 一番好きなのは、Round About 水戸納豆(Midnight)ですとさ。