一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

防火演習

 消火器はけっしてむずかしいもんではありません。動作はたった三段階です。レディースにもシルバーにも、キッズにだって操作できまぁす。
 真白い粉のような泡のような薬剤がシューッと、ものすごい勢いで噴出しますが、人体に有毒ではありません。それに今日は水が入ってるだけですから、なお安心です。さあ、順繰りに体験してみてくださぁい。

 やったやった。やはり夏休みに入ってすぐだった。私の場合は小学校の校庭でだった。六十五年も前のことだ。消火器は今よりも巨きく重く、逆さにして三回か五回振ってから噴霧するやりかただった。
 今朝は拙宅裏の児童公園。毎朝六時半に、ラジオ体操のかたがたが集合なさる八重桜の木陰だ。今は子ども連れのお母さんがたと、お年寄りが多い。日曜の朝ということもあってか、サンダル履きで気軽な服装のお父さんもちらほら混じる。

 夏休みの校庭では、映画会もあった。鳶職の作業員がやってきて、丸太を立て、ばかでかいシーツかテントのような布を張り、即席の大画面を造った。映画と同じくらい、昼間の作業を観るのが好きだった。陽が暮れて暗くなると映画が始まった。風が吹いてくると、片岡千恵蔵の顔がクリームパンのようになった。
 観客はめいめい古新聞を持参して校庭に敷き、座って観た。藁筵や茣蓙の人もあった。段ボールだのブルーシートだのは、まだ世に現れていなかった。少数ながら座布団を持参した人もあった。なんというお金持ちだろうかと思った。

 ラジオ体操は神社の境内に、朝六時集合だった。夏休み最初の朝に出かけてゆくと、二つ折りで文庫本の大きさになる、厚紙の出席簿がもらえた。中面は罫で細かく区切られたカレンダーになっていて、毎朝ハンコを捺してもらえた。そうなると空白ができるのは口惜しいので、欠かさずに出席した。

 まだやってない坊ちゃん嬢ちゃんはありませんか。大丈夫、今日の中身は水ですからね。みんなみんな、一度づつやってみてねぇ。もう一度やりたい人もオッケイですよぉ。では次、ご年配のかたがた、いってみましょうか。まずお手本に、町会役員さん、そうそう、お~っとっとぉ。

 ユーチューブ上を散歩していると、日本の危機予言動画や日本ナサケナイ動画にたくさん出喰わす。それ以上の数の日本スゴイダロ動画にも。外国人ユーチューバーがたによる日本大好き動画や日本に住みたい動画も、無数にある。
 曰く、日本人は優しくて親切。また曰く、治安が良く、女性の夜道歩きも児童のひとり通学もできる。道路にゴミが落ちてない。公衆トイレが清潔だ。公共交通機関を待って整然と行列する。乗物が時間どおりに運行される。車内で大声が聞えない。飲食店でも販売店でもコンビニでも、店員が笑顔でサービスしてくれる、などなどなど。挙句には日本人になりたい、帰化手続きが面倒で条件が厳しいのが残念だ、なんぞと続く。
 ですがね。。。日本も日本人も、いつの時代もさようだったわけではございません。また一朝一夕にさようおっしゃっていただけるようになったわけでもございません。上澄みだけすくって飲むのは無理だ。根も茎も忘れて花だけ摘もうというのは無理だ。
 ワタクシ、国民が多民族化することには大賛成でございます。ただし「めっちゃヤバい」ものだけでご満足なさらず、試みに『伊勢物語』あたりからでも、お眼を通してくださいまし。

 この国の姿は、傑出した賢者の指導によるのでもなく、ましてや現世利益に眼のない有力為政者による強権発動なんぞとは、なんの関りもない。自分の持場を貫き、わずか一歩前進するために生涯を尽した無数の人びとの営みが長く堆積して、気づいてみたらかような次第となっていたのだ。引換えに差出さねばならなかった価値がはなはだ多かったのはむろんだ。だれが設計図を描いたわけでもない。これをしも、文化の力という。
 近隣一帯に分散する独立都市(ポリス)だったギリシアをひと呑みにしようと、国力十倍以上とも思える大帝国ペルシアが襲いかかってきた。二千五百年ちょっと前のことだ。襲いかかられたほうは、必死の防戦に努めながら、自分たちはポリスの住民であると同時に、ひとまとまりのギリシア人なのだという自覚を初めてもった。三度にわたる大軍襲来をいずれも退け、大戦争ギリシアの勝利。次に実現する繁栄古典ギリシアの礎となった。
 かような天下分け目の大戦争が、なにゆえ起らねばならなかったか。そもそもの淵源を訊ねて広く調べ歩いたヘロドトスは、それらの帰趨としての大戦争を詳述した長大な書物の末尾近くで、かく結論づけた。弱小ギリシアが大国ペルシアを撃破することができたのは、つまりは文化の力だったと。

 さぁて、気温が上がってきましたぁ。あとはお隣の区民集会場に入って、ビデオを観てくださぁい。どおぞぉ。

 いかなる偉人も賢者も芸術家も、文化を創った試しなどない。わずかに一片よく文化を暗示するに足る作品を創ることができただけだ。文化は無数の生物の死骸が堆積してやがて石油となるがごとく、集積と年月の賜物である。
 将来の文化へとつながるかもしれぬ単体生物たちは、身辺いたるところで視かけることができる。