一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

同月同日

 少し異なりますが、まあ同じです。

 当「はてなブログ」には、参考までに昨年・一昨年の同月同日の日記は、というバナーが設定されていて、日ごろはさして興味もないのだが、つい気紛れにクリックしてしまった。
 一昨年の今日は、ユーチューブ動画上の音声においても字幕においても、「ラ抜き言葉」の氾濫が眼にあまると嘆いてある。ただ今現在も同感だが、この件は措いて。
 昨年の今日は、「梅雨冷」との題で、鍋にすり切り一杯の肉じゃがを仕立てる過程が、いくカットもの写真付きで書かれてある。数日にわたる冷えこみに遭って、仕舞いかけた長袖シャツを取出し、外出も尻込みして、手のかかる煮物に取りかかったと見える。大北君からご恵贈を受けた立派な玉ねぎとじゃが芋とを、せいぜい活用しようと考えたもようだ。豚肉を買う意欲があったのだなあと、妙な感慨を催した。併せて蕪の浅漬けを漬けこんだとも書いてある。これも写真付きだ。
 大北農園(?)の畑事情により、頂戴した日と順序とが多少異なるだけで、要は丸一年後も同じ暮しをしているわけだ。

 今年は肉じゃがではなく、玉ねぎたっぷり炒飯もどきがマイブーム。ふだん粥飯にするために小分け冷凍してある小おにぎり一食分と、同量かそれ以上にもなろうかという微塵切り玉ねぎを使う。昨日は塩・醤油味だったので、今日はケチャップ味にして、炒飯というよりはケチャップライスだ。
 本日のオニオンスライスは酢味噌ではなく、我流の和風ドレッシングをぶっかけた。市販の追いがつおつゆに酢と砂糖とを少々、それにワサビかショウガを差して、擂り胡麻を加えて水で延ばしながら混ぜる。油は使わない。ワサビかショウガか、両方試してみたが、甲乙つけがたい。
 玉ねぎスライスからひと摘みを、味噌汁にも放りこんだ。君きみ、自分を夏ミカンだと勘違いしてませんか、というほど大ぶりな玉ねぎ二分の一個が、これで摂取できる。なんとも贅沢な気分だ。

 ところで、玉ねぎの切落した頭(茎のほう)と尻(根のほう)それに剥いた薄皮などは、ゴミ小袋に放り込む。スーパーの買物まとめ台に備えつけられた薄い小袋だったり、砂糖や冷凍餃子や徳用ウインナの空き袋だったりする。かつてはレジ袋だったが、今はほとんどお眼にかからなくなった。黒糖ロール(内にマーガリンが詰った黒いロールパン)の袋と肉まんの袋とが、大きさからも材質の丈夫さからも最適だ。
 長袖をまくるように上部を折り返して、口を開いたまま立てるようにして、ガス台の隅に置いてある。匂いを発するものや腐りやすいものは、ここに捨てる。出汁の漉し殻や、油や酢が付着したものも、ここに捨てる。灰皿の中身もここだ。あるていど溜ったら、伸ばし戻した上部を結ぶなり輪ゴムを掛けるなりして、四十五リットルの大ゴミ袋に投じる。台所ゴミを凝縮して嵩を小さくするためと、ゴミに悪臭を発しさせぬためだ。

 反対に、防腐防臭防カビ効果がありそうなものは、大袋に直接投じている。麦茶・紅茶・珈琲の漉し殻、ワサビ・ショウガ・カラシが付着したものなどだ。
 たとえば納豆パックを開けたとして、中身を小鉢に移したあとは、セットされていた出汁の小袋は肉まん袋へ、カラシの小袋は四十五リットルへ直接、発泡スチロールの舟は資源ゴミ分別袋行きとなる。そうまでせずとも、またそこまでする必要はあるまい、との考えもあろうとは納得している。飽くまでも、自分一個の自己満足問題である。
 週に一度か二週に一度、四十五リットル袋を回収場所に出すとき、ゴミ袋の密度に納得がいって、ザマアミヤガレ俺の袋は風で転がったりはしない、と独り思うのが好きなのである。