一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

手抜き

 「あんたは二人の人を握って産れてきた。どっちつかずでいると、どっちの女も不幸せにするよ」
 二十歳のころ、手相見のお婆ちゃんから、呪いのごとき忠告を受けた。

 幸いにして人さまを不幸にできるほどの豪傑的性格ではなかったから、予言は当らなかった(と思う)。ただし情けない男だ、頼りない男だ、度胸なしだと失望幻滅させた機会は、予言の十倍以上はあったことだろう。
 手前勝手な遊び人風の生きかたで押しとおしたが、陰へ回っては控えめに用心深く、より正直に申せば小心者として生きてきた。
 加えてものぐさというか、たか括りというべきか、なるようにしかならんだろうとの精神に蝕まれて、消極的人生とならざるをえなかった。金にも栄達にも無縁の来し方だった。

 初夏のころだったか、豊島区の施策で「低所得者向け物価高騰対策事業」があった。地方税の納税記録を洗って、低所得世帯を割出したものだろう。突然アンケートが郵送されてきた。食糧支援するから、希望支援を選択肢から選べというアンケートだった。
 米三十キロ、米十五キロ+お茶ペットボトル一ケース、米十五キロ+ジュースペットボトル一ケース、米十五キロ+カット野菜、その他の選択肢だった。独居老人世帯に米三十キロも穏やかじゃないと判断して、カット野菜との組合せに〇を付けて返送しておいた。


 それきり忘れていたある日、ドンッという感じで、荷物が届いた。透明ビニール袋入りの五キロ米が三袋だ。困窮区民への支援と、ノンブランド米もしくはブレンド米を大量買入れする、一石二鳥の良策だったに違いない。
 窮しているとはいえ当方は、米処の親戚から毎年「生産者の顔が見える米」を贈っていただいている身である。米の値打も見分けかたも、有難味も承知ている。ひと袋をさっそく開封して、ありがたくいただいている。


 同時に届いたのが、下茹で済みのカット野菜だ。人参とじゃが芋と玉ネギとを中程度に切った「肉じゃが・カレー用」八パックと、小さくさいの目に切った「ミネストローネ用」ふたパックだ。いずれもワンパックふた皿ぶんとある。これもありがたい。さっそく使わせてもらっている。

 肉類を加える気はない。玉ねぎを加えることにした。中型玉ねぎを一個、スライスすると丼一杯ほどとなる。フライパンに移し弱火でじっくり炒める。焦げぬように掻き混ぜながら、料理番組に云うところのキツネ色に。量は四半分となり、色は切干し大根のごとくだ。
 水を張った鍋には少々出汁をしておく。一度パックの水ごと投入してみたが、酸味が出てかえって邪魔になった。野菜は浅く下茹でしてあり、まだ芯を残してあるから、薄出汁と炒め玉ねぎの味で少々煮込む感じだ。頃合いを見計らって拙宅ではバターと称ぶマーガリンを投入。もうひと煮込みしてから、市販のカレールーを投入して、さらに煮込む。鍋底の焦げつきを防ぐべく、時おりの掻き混ぜはむろん不可欠だ。
 家庭用小鍋で、しかも炎の片寄りがひどい老朽ガスレンジにあっては、ルーが余すところなく溶けたかも看なければならない。

 カレーライスにもカレーうどんにも、今さら心躍らないから、甘口ルーを用いて、まったく辛くないカレーに仕立て、小鉢の一品としている。納豆と玉子焼きと漬物という普段の粥和食に、ひと鉢加えるわけだ。玉ねぎはすべて姿を消し、味かトロ味と化し果て、一応納得できる味にはなった。ワンパックふた皿ぶんと表示されてあるが、わが三食か四食ぶんの総菜という感じだろうか。
 調理時間の多くは下ごしらえ時間だから、おおいなる手抜きとして役立っている。私は豊島区から、たしかに支援を受けた。