一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

断じて

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長谷川如是閑(1875‐1969)

 座右の銘を「断じて行わず」とした巨人があった。今では、採り上げる人もめったにあるまいが、途方もなく偉かった人と思っている。とやかく云うまえに、この人の言に、耳を傾けようかと思う。

 東京深川に生れた。祖父の代まで大工の棟梁だった。江戸城の築城にも携わった棟梁の家柄だ。父は材木商だった。
 小学生のとき、牛込の塾へ通って、坪内逍遥から英語を習った。いくつかの英語学校や法律学校(いずれも現私立大学)に籍を置いたすえ、三十四歳のとき大阪朝日新聞社に入社。ほゞ十年勤めて退社。以後はどこにも属さず、まったくの筆一本。在野の言論人・ジャーナリスト・文学者・哲学者として、時代を動かした。如是閑(にょぜかん)翁と称ばれた。

 大正デモクラシーと今日称ばれる自由主義的空気の時代の、中心的論客だ。昭和に入っても、戦前戦後を貫いて執筆はやまなかった。残された仕事の幅は広く多彩で、量は膨大である。後進による評価・研究はいずれも群盲象を撫でるの図。今もって全体像を抑えた研究は、ろくにない。各側面の研究成果はそれぞれに上ってきているが、いまだ手つかずの側面も残る。

 大づかみに申せば、近代日本の知識人が欧米に追いつけ追い越せと、血まなこになるあまり、根の浅い西洋かぶれに陥りがちな時代に、日本を視なおせ、常識に還れと提唱した人だ。思想史・言論史では、陸羯南(くがかつなん)や三宅雪嶺(みやけせつれい)といった名前に続いて、名前が出てくる人だ。
 だからといって、国粋主義だの皇国史観だのとは無縁である。軍国昭和のイデオローグなどではない。

 ヨーロッパ観においては、英国びいきだった。ドイツ観念論を極端に毛嫌いし、英国経験哲学を愛した。観念的(言葉上の)原理原則や規範や理念や理想を目盛りとして、実人生を測る(演繹)ことを嫌った。とかく人間とはこのように腑甲斐ないものとの、観察やわきまえに出発して、常識とヒュ-マー(ユーモア)をもって考えることを好んだ。

 長い活躍期間だったにも拘わらず、徒党を組むことも一派を形成することもなかった。運動を展開することもなかった。著名のわりには行動的とは見えない。熟考のすえに自重する、わきまえるという態度が目立つ。断じて行わず。座右の銘の含蓄は深い。

 職人衆の噺が好きだった。腕を磨くための精進や辛抱や、下積み時代の苦労の噺を耳にすると、人前も憚らずに泣いた。父祖を想い出してだろうか。
 縁の深かった岩波書店文藝春秋の編集者たちは、仕事が手すきになると、職人の新たな苦労噺を仕入れてきて、如是閑先生を泣かせに行こうと、面白がって鎌倉へと赴いた。(いずれも後年、大編集長や社長になった面々だから、こゝではお名を伏せる。)

 大学二年の秋だったか、意外な取合せだが西洋哲学の教授から、長谷川如是閑を教わった。三島由紀夫自裁する前後のころだ。
 当時の自分に関係ありそうな、文学の部分だけ読み、あとはほんの少々読みかじったり、目次だけ眺めたりした。それだけでも、途方もない人もあるもんだと思った。今の俺にはまだ早い、いつか齢をとったら、こういうものをじっくり読めばよいのだな、とも思った。

 それから五十年あまり、古本屋歩きでたまさか眼に着くたびに買い足してきたから、本はたっぷり所持している。が、今も読みかじりのまゝだ。
 私も、断じて行わなかったのである。