一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

下司上等

「闇鍋ジャーナル」ニュース解説動画より、無断で切取らせていただきました。

 このところ、田北真樹子さんのファンである。産経新聞社月刊『正論』編集長でいらっしゃる。第一線にてご活躍中の出版人でありジャーナリストであり言論人である。世間知らずの私が無知なだけで、「泣く子も黙る」おかたなのかもしれない。
 お家もお育ちも、学歴経歴も、これまでのご業績も、およそプロフィールめいたことはいっさい存じあげない。だのにファンであるとは、なにごとか。しごく明瞭だ。この女性のお顔が好きだ。

 詩人が努めて表そうとしたところを味わうがよろしく、詩人があえて表そうとはしなかったところをいくらほじくり返してみたところで、実りある思索とはなりえない。たしか西行だったか実朝だったかを論じたなかで、小林秀雄が喝破したところだ。至言である。
 となれば、田北さんファンを自任するのであれば、まずもって月刊『正論』誌面に、次いでネットメディアその他で展開される彼女の言論ならびに報告に、注目しなければならぬ道理だ。
 しかしながらここに問題がひとつ。私は小林秀雄ではない。もっともっと、ずっとずぅ~っと下司な男なのである。

 先ごろ公共施設(市営プールだったか)が民間に貸出されて、プールサイドでの水着撮影会が企画され、通報~住民(?)苦情の果てに催しが急遽中止されたとの事件があった。グラビアモデルたちがきわどいポーズを要求される撮影会に、公共施設を使用するとはなにごとか、というわけだろう。腰が引けてオロオロした自治体の対応があった。公序良俗を云いつのるお上品論説もあった。女性の性の商品化を糾弾する運動家の発言もあった。他方で、これから名を挙げてゆこうと意欲的な若きグラビアモデル嬢の仕事を奪うなとの説も出た。下品だ猥褻だといった境界を、お前が勝手に決めるなとの反論も出た。
 幸いにして、若き論客がたおよび歴史に疎い運動家がたによる舌戦だったためか、語調が激しい割には彫の浅い議論で、旧い噺までが引っぱり出されるには至らなかったようだ。なにせ年寄りは、『四畳半襖の下張』裁判も『チャタレー夫人の恋人』裁判も記憶している。旧くはアルツィバーシェフ『サーニン』翻訳の件だって承知している。思いつきで口を出せるほど、簡単な噺ではないのだ。

 アダルト業界にあっても、陰毛が撮影されるのはけしからんという時代に、では陰毛と周辺体毛との境界はどこかという議論があったし、脱毛処理した女優ならいいのかとか、たいそうな議論となった。素肌と異なる粘膜周囲の色素沈着がけしからんという説に、個人差により肌色素の淡い女優ならいいのかとの議論もあった。
 一般論や原理原則論による粗っぽい議論は不毛で、現場人たちが個別実例いちいちについて、粘り強く試行錯誤してきた果てに、今がある。

 かりに水着撮影が無邪気な美意識追求ではなく、撮影者の助平ごころによる妄想を満足させてギャラにする取引だとして(さように相違あるまいと思うが)、それが「性の商品化」だろうか。撮影会終了後に、申込者たちとモデルたちが指名し合ってどこかで……という噺ではあるまい。では妄想ほしいままの助平ごころ自体が、公序良俗に反するのだろうか。犯罪性を帯びているのだろうか。
 失礼ながら私は、わが助平ごころが刺激されぬような小説も映画も、好きにはなれそうもない。アリストテレスや孔孟を読んだって、野望野心の発動がなければ理解は深まらない。ましてやソフォクレスとなればなおさらだ。時代下って、シェイクスピアだろうがチェーホフだろうが、さしたる学識教養も持合わせぬ身でその世界へ踏込んで行くには、己の助平ごころはほとんど唯一と申してもよろしい武器であり、刃物である。
 芸術だって……? 冗談じゃないっ。猥褻ですらないものに、なんの芸術的価値があろうぞ。

同前。

 田北真樹子さんの動画をストップモーションするときには、ご発言中の、「おこそとの、ほもよろを」で停める。
 繰返すが、言論内容については、すべて措く。