一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

事件記者

『事件記者』NHK総合、昭和三十三年(1958)~昭和四十一年(1966)放送。

 警視庁記者クラブをおもな舞台に、新聞各社の社会部記者たちが「特ダネ」目指して知恵と行動力とを尽しあう群像劇。毎回事件発端から解決までの筋立てだが、仲間でもあり狐と狸の化かしあいでもある各社の対抗意識が面白く、人気を博した。
 警察捜査員からいかにして情報を引出すかに苦心しながらも、時に事件解決に協力して報道管制の条件にも応じる。稀には警察を出し抜いて独自の取材成果を挙げ通報協力。代りに記者発表の前に「特ダネ」提供を約束させる交換条件の駆引きもあって、子ども視聴者にとっては、へぇ世の中にはかようなこともあるのかと興味を惹かれた。
 お上からの記者発表や会見を垂れ流すだけでない、「独自取材」を強調した点は、今想い返しても理想的な報道記者像だった。また事件を解決する警察官でも名探偵でもなく、側面から事件に迫る記者という視点がそれまでになく新鮮だった。

 当初は毎週三十分番組で前後半仕立て。二週で事件が解決していた。人気に後押しされてか、ある時期から一時間番組となり、毎週事件が解決するようになった。これが新たな苦労の始まりだったという。
 通常であれば五日なり一週間か前に台本が上り、読合せや稽古(リハーサル)に数日。通し稽古・舞台稽古(ドライ)があってカメラや照明も確認される。翌日がビデオ収録。さらに翌日が放送となる。三十分番組だった時期は、それでなんとか回っていたという。問題は一時間番組に格上げされてからのことだ。

島田一男(1907 - 96)

 台本作者はミステリー作家の島田一男。登場人物が多く、出し入れに苦労する台本である。湘南だか鎌倉だかの島田邸まで、担当者が毎日飛び、その日に上った原稿を受取って来る。それでもリハーサル日程が確保されなくなる。窮余の一策が、前半ビデオ収録、後半は放送時間にその場の生演技でつなぐという、危険このうえもない綱渡り方式だった。
 活力ある記者たちを演じる役者の多くは、新劇の俳優たちだった。長年の放送をつうじて、扮する役の気性から口癖まで練り上げてきていたから、細かい演出や演技指導の必要がなかった。だからこそこんな離れ業ができたのだったろう。

 ある回の後半、生放送の部分では、装置(セット)が突然倒れてきた。手前では特ダネ競争の深刻な打合せが進行しているというのに、丸見えになった奥では、次の出番の役者たちが衣装替えの真最中だった。世紀の放送事故である。
 残念ながら、その回の記憶はない。後年取材中に聴き知ったこぼれ噺だ。記録など残っているはずがない。生放送部分のみならず、ビデオ収録して放送した部分すら、ほとんど残っていない。
 開発されて間もないビデオテープは、たいへん高価なものだった。収録テープをそのまゝ保存するなど、予算からして思いもよらぬ時代だった。使い回して、次の番組を撮り重ねた。今日云うところの「上書き」である。NHK・民放各局を問わず、ある時期までの名作ドラマのほとんどは残っていない。

 記者クラブの外で毎回登場する場面といえば、居酒屋「ひさご」である。記者たちが慰労や気分転換や、情報交換や密談やに、常時出入りした。
 東京日報の八田老人とベーさんの顔が見える。めったにないことだが、ムラチョウとエンちゃん、二人の警察官がいる。ということは、「日報」が摑んだネタと警察との間で、なにか取引きの真最中にちがいない。
 料理を運んできたのは、女将の「おチカさん」だ。新劇畑の多いレギュラー陣の紅一点とすらいえるこの女将さんは、なにを隠そう坪内美詠子さんだ。戦後お名を更えてフリーの脇役女優さんのような顔をして過されたが、かつては銀幕の大スター、松竹の幹部女優だった坪内美子さんである。
 坪内さん出演作品に、容易に観られるものが少ないのを、私はかねがね不服に思っている。