一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

贈り物

スタインベック『赤い小馬』(西川正身 訳、新潮文庫

 長篇『怒りの葡萄』『エデンの東』を読みとおす忍耐力も体力も、もはや残ってはいまい。スタインベックを思い出したければ、連作短篇集『赤い小馬』Red Pony に限る。長篇に勝るとも劣らぬ傑作だ。カリフォルニアの南北中央あたり。東西を山脈に挟まれた傾斜地で牧場を営む夫妻と一人息子に、長く働いて家族同様の使用人を含めた、一家四人による四篇の物語が並ぶ。
 広びろと豊かな山川草木に囲まれ、素直ではあるが時に容赦なく非情でもある鳥獣虫魚の世界を身近にしながら、十歳の主人公ジョディ―少年が命の理(ことわり)に眼を啓かれてゆく過程が描かれてある。

 『贈り物』The Gift は、初めて自分の馬を持たされた少年が、夢中で世話に励んで、経験したことのない生甲斐を覚える噺だ。
 なにごとも自力で切り拓いてきた父は、ある日息子に小馬を一頭買い与える。いっさいをビリーから教わるようにと厳命して。使用人ビリー・バックは、近在に彼より馬の扱いに優れた者はないと噂される男である。
 とかく腕試しがしたくてならぬ年ごろのジョディ―少年の暮しぶりは一変した。朝はだれより早起きになり、母から起されることなどふっつりとなくなった。丘を越えた向うの学校からは、一目散に帰ってくる。もう鳥や虫たちなんぞを相手にしてはいられない。川や畑や牧場で、子どもじみた遊びにうつつを抜かしている暇はないのだ。

 小馬は少年によく懐き、父よりもビリーよりも、ジョディ―の後をついてくるようになる。可愛くてならない。いっぱしの牧童になった気分がして、鼻高だかだ。
 ところがあるときから、馬に元気がなくなった。首をうなだれたまま、呼吸も辛そうだ。父に相談しても、取合ってくれない。「ビリーに任せておけ。彼より馬に詳しい男は、このあたりにはいないんだ」
 「ねぇビリー、大丈夫だよねぇ」「あぁ、むかし一度、こういう馬を助けたことがあった」「えーッ、そんなに珍しい病気なの?」
 ビリーは時間をかけて馬の躰を隈なく触診した。やがて馬の首筋をナイフで裂いて、傷口に腕を突っこみ、悪いシコリを取出した。外科手術である。「ジョディ―、あとを優しく面倒看てやってくれ」

 呼吸が楽になったようで、馬は元気を回復した。が、それはほんの一時だった。数日後にはまた苦しそうにしだした。気が気でないジョディ―は、馬屋に隣接する納屋の干草山で寝ると云い出す。ここはビリーに任せて、母屋で寝なさいと母が説得するが、いっこうに聴かない。「アタシと交代で付添うことにしよう」とビリーが調停案を出してくれた。
 当番だったある日、ジョディ―は干草山でついつい眠りこけてしまった。少年の疲労や寝不足も限界だったのだ。夢の中で物音を聴いた気がした。起きてみると、馬がいない。鼻で横木を外して、自分で出たと見える。あの躰で遠くまで行けるはずはないが、あたりに姿は見えない。
 報せてくれた人があった。ヨタヨタとおぼつかぬ足どりで丘を登っていったのは、ありゃおたくの馬じゃねえのかな。ジョディーもビリーも父親も、息せき切って丘を登った。高い樹の枝に、鳥が群れている。嫌な予感がした。

 かように粗筋だけを述べると、さも善意あふれる動物愛物語であるかのようだ。日に日に成長してやまぬ少年の、心映えを好ましく謳いあげた、生命礼賛譚であるかのようだ。じっさいは父母の人柄やビリー・バックの風貌や、牧場の労働やあたりの動植物やをさりげなく書き込んだ細部に充ち満ちていて、再読三読するほどに、具体的映像が上書きされるように刻み込まれて、ついには映画に観た場面であるかのように、人も光景も読者にくっきりと印象づけられる。
 丘の中腹の道に馬は横たわっていた。まだかすかに息がありそうだ。数羽のハゲワシが地上に降りて、馬の周囲に輪をなしている。先走った一羽が、馬の頭に跳び乗り、先の曲った鋭い嘴を馬の眼に突き入れた。首を起してジョディ―を振返る。嘴から粘り気のある黒々した液体が糸を引くようにしたたり落ちていた。
 ジョディ―は躍り込むように跳びかかり、ハゲワシを羽交い絞めにした。ほかのハゲワシは飛びのいた。ジョディ―に捕まったハゲワシと眼が合う。無表情で冷酷な眼だ。苦しげな素振りもない。ジョディ―はなおも、ハゲワシの首を絞め続けた。やがてハゲワシは、長い首を投げ出すように、ぐったりとなった。

 興奮が去ってジョディ―は放心していた。父はハンケチで、ジョディ―の顔に飛び散った血を拭ってやりながら云う。
 「おい、ジョディ―、こいつが馬を殺したわけじゃないんだ。解らんのかっ」
 「解ってるけど……」と少年は独り言のように応える。
 ビリー・バックは少年を抱き起し、肩を抱きかかえて一瞬は帰りかけたが、足が停まって振返った。日ごろは父親の言に異論を差挟むことなどいっさいないビリーが、この時ばかりは憤然として大声を挙げた。
 「そんなこたあ、むろん、解っていなさるんだ。このお子さんが、今どんな気持でいなさるか、旦那、あんたには解らぬとでも云いなさるんですかい?」

 一篇の末尾である。ビリーのつねにもなく激しい、吐き捨てるような台詞で、短篇『贈り物』は了る。
 経験をとおして学べ、躰で覚えよ。旧き佳きアメリカ(いやアメリカに限るまい)の教育観にして人間観だ。父もビリーもそこでは一緒だ。ならばいかにして、なにを目星に経験するか。そこんところだ。
 父は「世界から視れば人間ってもんは」を思い知れと云っている。一種の古典主義だ。ビリーは「人間から視れば世界ってもんは」を感じろと云っている。一種の浪漫主義である。
 むろん文豪は裁定をくだしたりはしてない。世にも美しい物語のかたちで、提起してあるだけだ。