一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

約束


 いかにもそれらしい人間となるためだけに、十年もの歳月を費やすのは、愚かなことだろうか。

 若い時分に、信頼する先輩から云われたものだ。良い作品を書くことが大切なのはもとよりだが、作家らしい人間になることが、同じくらい肝心だと。
 私は小説家たらむとの志を抱かなかったから、「作家らしい」はパスしたが、少し幅を広げて文学者(または文学屋)らしい人間と云い換えれば、たしかに同感である。むろん現今のジャーナリズム常識にそぐわぬし、とりわけお若い文学者がたの多くからはご同意いただけまい。
 今では、作品を書けば作家志望者である。それが売れれば作家である。つべこべ能書きを差し挟む余地はない。いっそさっぱりしたもんだ。売文で稿料が取れれば、ライターである。それに別段異論はないけれども。
 仕事もさることながら○○らしい人間、なんぞという言いぐさを弄するのは、○○マン・シップというような、旧い職業倫理にからめた旧い人格美学への信奉が胸底に巣食っているからだろう。自覚もし、いくぶん反省もするが、考えを改める気はない。

 スタインベックの連作『赤い小馬』四篇のうちで、とりわけ心惹かれるのは『約束』という短篇だ。
 夢中で世話した愛馬の非業の死を間近に目撃したジョディ―少年は、喪失感に襲われもし、自分の無力に打ちのめされもしたろうが、しだいに元の自然児の快活さを取戻していった。学校帰りに草むらでトカゲを捕まえ、裏返して腹の急所を撫でておとなしくさせて、空の弁当箱に何匹も収めたりする。
 「きゃぁーッ、ジョディ―、お弁当箱にトカゲを容れてはいけませんっ」
 母の怒鳴り声が背後に轟くころには、少年はもう牧場に向って走り出してしまっている。

 ある日、学校から帰ってみると、いつも優しい母がつねにもなく大真面目な顔つきだ。
 「お父さんがね、お噺があるそうよ。すぐに行ってごらん」
 シマッタ! またお小言か。今度はなにがバレたろうか……。
 父は、馬の運動場の柵の一番下の横木に片足を乗せた姿勢で、ビリー・バックと楽しそうに会話している。変だナ、お小言じゃないみたいだ。
 「ビリーから聴いたんだが、ジョディ―、おまえはたいそう辛抱強く馬の面倒を看たそうだな」
 「そりゃもう、旦那、初めてであそこまでは、大人にだって、とうていできやしませんとも」ビリーが口添えしてくれた。
 「ふむ、馬をよく知るには、最初から手掛けるのが一番だ。ネリーに仔を産ませようと思うんだが、どうだジョディ―、仔馬から育ててみる気はあるか?」
 一瞬にして、ジョティーの眼は輝いた。

 父とビリーは雌馬ネリーを曳いて、町へと出掛けた。戻るなり父は、種付けはうまく行ったと云う。
 「あぁ、まず間違いないでしょうな」と、ビリーも太鼓判を捺した。
 それからというもの、ジョディ―は日に何度となく、ネリーの腹を観にゆく。
 「いっこうに大きくなってこないけど、ビリー、大丈夫なのかしらん」
 「そうすぐには、目立ってきたりするもんか。まだまだ先のこってすよ。心配いらねえ、かならずあんたに可愛い仔馬を抱かせてやるさ。約束だ」

 月日が満ちたある日、母馬の様子を触診していたビリーが、ふいに振返った。
 「ジョディ―、母屋へ戻って、母さんに伝えとくれ。今夜、湯をたくさん沸かして、ヤカンにも桶にもタライにも一杯にしておいてくださいってね」
 少年は母屋へ飛んで帰る。母は即座に事態を察知した。
 「ネリーだね。今夜なんだね。解ったよ。お前はネリーのそばに、ついていておやり」
 やがてビリーが予言した時刻を過ぎた。母馬の息遣いはいよいよ激しい。だがお産は始まらない。
 「変だナ、こんなはずはないんだが……」
 意を決したように、ビリーは母馬の胎内に腕を突っこむ。
 「いけねえ、逆子だ。しかもまったく逆向きだ。こりゃあひでえや。ジョディ―、前へ回ってネリーを、しっかり押さえつけておいてくれ」
 ビリーは母馬の胎内から、力づくで仔馬を引っぱり出そうと、いく度も力を籠める。母馬は苦しげに呻き、暴れる。ジョディ―は押さえつけるに必死だ。母馬の尻から、仔馬の脚の先が二本覗いた。ふいにビリーが力を脱いた。

 「ジョディ―、もういい。あんたは母屋へ帰っていなさい」
 「いやだっ、ビリー、どうするつもり? ぼくもここにいる」
 「いいから、云うことを聴きなさい。今すぐにだ」
 ビリーのこんな怖い顔を、ジョディ―は初めて視た。が少年も後へは引かなかった。
 「仕方ない、だったらあっちを向いてるんだ。振り向いちゃいけないっ」
 ジョディ―は、回れ右した。が、顔を斜めにして、ビリーの行動を横目で窺っていた。

 ビリーは馬屋の隅の道具置場から、巨きなカナヅチを引きずり出してきた。荒地で岩を砕いたり、タガネを打ちこんだりするとき用の、弁当箱くらい大きな鉄の塊が付いたやつだ。
 横たわって全身で荒い息をしている母馬の眉間に狙いを定めると、ビリーは巨大なカナヅチを頭上まで振上げ、低い気合とともに振り降ろした。短い悲鳴とともに、ネリーは静かになった。脚だけが、まだ痙攣している。
 愛用のナイフを取出したビリーは、母馬の腹を裂いた。生皮はうまく裂けず、切口はギザギザになった。ドスンと音がするように、粘膜質の袋に包まれた仔馬が出てきた。同時に大量の血と臓物類とが、床に広がった。
 馬屋は一瞬にして異臭に満ちた。匂いに興奮したのか、他の馬たちがいっせいに後足で立上り、悲痛ないななき声を挙げた。

 ビリーは粘膜質の袋の一部を歯で食い千切りながら云う。
 「早くしないと、袋の中で窒息してしまうからなぁ。さ、母屋へ行って、湯をもらっておいで。あんたが母さんにしてもらったように、この子をよく拭いてやるんだ」
 あまりの光景と匂いとに息を呑んだまま、ジョディ―は立ち尽し、動けない。
 「こうするしかなかったんだ。これ以外にやりようはなかったんだ。あんたに必ず仔馬を抱かせてやるって、あたしゃあ約束したからなぁ」

 連作『赤い小馬』の主人公はジョディ―少年で、それに次ぐ登場人物は父母夫妻だ。だが愛読者にはどういうわけか、四人目の人物ビリー・バックのファンが多い。旧き佳き「○○らしい人間」の魅力を極限まで表現しえた人物像ということなのだろう。
 一昨日の『贈り物』とこの『約束』、加えていつぞや思い出しておいた『開拓者』、今は昔の西部開拓史時代の夢から今も冷めきれずにいる老人(母の父親、つまりジョディ―の祖父)の滑稽な哀しみの噺。三篇あいまって、『赤い小馬』が長篇代表作に劣らず、スタインベックの達成を示す傑作たることを瞭らかにしている。