一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

どてかぼちゃ

 トゥビー・オア・ノットゥビー!

 この春、老齢の君子蘭を分散移封した。古い鉢に窮屈そうに縮こまっていたものや、欠け鉢から溢れ出して、成行きでそこいらに根付いたりしていた連中を、いっせいに解放。古根を払落して根分け株分けし、病葉を切落してひと株ひと株を小柄にして、二地帯に分散して地植えにした。
 もとより立派な花を期待する身ではない。緑としてそのへんにいてくれればよいのだから、いい加減な手入れだ。このさい脱落絶命する株が出てもやむをえない、というほどの気分だった。

 植替え地に穴を掘れば、地中からは当然、好ましからざるものが出てきた。瓦礫やブロック片やコンクリート片、樹脂片や金属片、由来を訊ねればそれぞれ理由のある異物どもだ。篩に懸けてそれらを取除けば、土の質はかすかに挽回しようけれども、嵩は減り、地盤維持的にもいかがなものか。しかも毎年の雑草繁茂により、地味は痩せゆく一方だろう。
 べつに農業的配慮というほどでもないが、わずかなりとも多彩は有機物が加わったほうが、地中生物たちにもよろしいかとの素人考えで、捨てずに冷蔵保管しておいた生ゴミを、掘りあげた土に混ぜて埋めてきた。バナナの皮だの、じゃが芋や人参の剥き皮だの、茄子のヘタや蕪の尻尾だの、それにカボチャの種子とワタなどである。

 さてこのひと月の、急激な気温上昇と雨である。草むしりして地表が露わになった箇所からも、まずはカタバミ類とシダ類とが芽を吹き始めた。次いでドクダミの幼葉も顔を出す。どれもこれも生意気に、成草と同じ形をしている。玩具のようだ。
 と思っていたら、分封した君子蘭の根方から、視慣れぬ葉が姿を現した。しかも在来の草ぐさよりも、異様に成長速度が速い。引っこ抜こうとしたら、君子蘭のバルブまで持上げて地上につれ出してしまいそうになる。何者か、おまえは?

 しばし考え、思い当り、まさかと打消し、やはりと思い直した。生ゴミとして地中に投棄したカボチャの種子が芽を吹いてきたのである。ワタも一緒くただったから、自家栄養も足りていたのだろう。
 それにしても、栽培知識は皆無の私が考えたって、実を食すための適熟と、次世代の種子を採取するための完熟とは、異なるのが普通だろう。食用の実の内にあった種子など、栽培種子としては未熟なのではあるまいか。冷蔵の時を経てもいることだし、芽を吹いてくるなどとは、想像もしていなかった。野菜ゴミを地中投棄してなん年にもなるが、初めての経験である。

 こうしたものなどだろうか。そういえば「どてかぼちゃ」という語もある。ごくごく平凡でありふれた、取柄のない奴という意味だ。
 語源は「土手のカボチャ」だろう。河川敷の広がりや堤の傾斜地に植えっぱなしにして、ろくに手も入れない。洪水でもあれば、持っていかれてしまう。運が好ければ、実のいくつかも生る。手入れも品種の維持もされていないから、味や糖度に責任は持てないけれども、宿無しや貧乏人にはいくらかの助けとなる。
 日本人の大半が貧しく、わずかの空地からも食糧が生産できぬものかと、抜け目なく思案せざるをえなかった時代に発生した語だろう。拙宅の玄関前の、ブロック塀前のわずかなスペースが、土手となったわけだ。

 このまま放置すれば、さらにはびこり成長して、威勢の好くない花のいく輪かくらいは着けるのかもしれない。が、実の収穫はとうてい望めまい。丹精する気もない。
 それどころか、これをいつ引っこ抜くかを思案中だ。草むしり後の露呈した地表を覆う緑として、今ならよろしかろう。どうせこのあたりには、シダ類・ドクダミヤブガラシといった、拙宅にあってのはびこり三悪役が出てくるにちがいないから、カボチャの葉となれば、それらよりいくらかましというものだ。
 しかしまた一方で、そもそもこの地でカボチャの栽培なんぞとは、一瞬たりとも考えたことない。つまり理由も由緒もありはするものの、雑草である。

 名もなき雑草、なんぞとつい口を衝いてしまうが、そんなもんはまずない。私が名を知らぬだけのことだ。
 園芸的にも農業的にも「雑草」の定義は確然としていて、意図から外れた植物を指す。芋畑にどこで紛れ込んだか稲が生えてきたら、その稲は雑草である。
 その伝でゆけば、さてこのカボチャの茎と嫩葉。このままでよいのか、なんとかせねばいかぬのか、ここが思案のしどころだ。