一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

もう喋りません

宮田 輝(1921 - 1990)

 喋ることを真剣に研究した覚えはないけれども、時代と身の上に合せて、喋りかたをいささか工夫してきたとの想いはある。

 五十歳ころのある年に、二人の美少女歌手が同時に登場してきた。浜崎あゆみさんと宇多田ヒカルさんだ。かくも見事な対照もあるものかと、感じ入った。
 似た想いに捕えられた二十代時分の記憶が蘇った。正確には同年デビューではなかったのだが、松任谷由実さんと中島みゆきさんとが同時に私の視野に入ってきたときである。対極とすらいえそうに対照的な才能が、クツワを並べるように登場してくるという事態は、興味深くはあるが珍しいことではない。

 同時代の眼からは相容れぬ対極と見えながらも、時を経て遠くから眺めれば、ともに色濃く時代を映していることが歴然とするのだろう。俊成卿と西行とが同時代人であるようなもんだ。

 ともに伝説的な NHK アナウンサーだった宮田輝高橋圭三とは、同年入局である。戦時中のことだ。戦後は、どうにかして暮しを立て直そうと必死の日本人を励ますべく、津々浦々に朗らかな声を轟かせた、国民的人気アナウンサーだった。
 宮田輝「のど自慢素人演芸会」、高橋圭三私の秘密」が多くの視聴者の記憶に残っていることだろう。じつは高橋も「のど自慢」の司会を担当したし、お二人とも「紅白歌合戦」を長年担当している。同時代の両看板として、重なる経歴はまことに多いのだが、宮田の「のど自慢」高橋の「私の秘密」と思い出が片寄るのにはおそらく理由があって、持味がかすかに異なった。NHK オフィシャルにより近い匂いのする宮田と、庶民の茶の間により近い高橋という対照だった気がする。
 が、今日から視れば、俊成卿と西行とが同時代人だったように、同時期の名司会者である。藤山一郎岡晴夫の伸びやかな唄声が全国に広がるのと軌を一にして、明るく朗らかな司会者の声が町まち村むらにまで浸み入ったのだった。

 社会人となって、人並に喋りかたを工夫せねばと考え及んだ時分には、宮田・高橋の時代はすでに遠く去っていた。逆立ちしても真似などできぬのはもとよりだが、仮に真似などしてみたところで、嘘臭くわざとらしい、嫌らしく醜い口調となってしまったろう。私の技量や人間性の問題を措いたとしても、会話に寄せる日本人の感性が、時代的変遷を経てしまっていた。
 密かに注目したのは、八木治郎アナウンサーだった。高橋圭三から「私の秘密」を引継いだ司会者だ。宮田・高橋よりはるかに地味で、いわば花がない。その時分には理解不能だった。ところが NHK を退職して、東京12チャンネル(現テレビ東京)の「人に歴史あり」というインタビュー番組の司会者八木治郎に、私は眼を啓かれたのだった。

 同名のインタビュー記事が、日経新聞に連載されていた。功成り名を遂げた各界著名人の回想録である。つまり苦労噺と自慢噺だ。それをテレビ番組でやった。各界著名人をゲストに、八木治郎が聴き役となって、来しかたの回想を聴き出すのである。
 驚き過ぎず感動し過ぎず、むしろ鈍感を装って、ゲストの勘所へとじわりじわり話題を進めてゆく。ハハァこれだなと、私は感嘆したのだった。
 会社員として目上の取引先と話すとき、営業担当として得意先と交渉するとき、編集者として著者に接するとき、つまり二十代後半から四十歳くらいまで、私は「人に歴史あり」での八木治郎の口真似をして過した。

 守破離の志なんぞと申せば、あまりに巨きく出たと嗤われるに相違ないが、ある時期が来て、そこから離れた。しだいに自分勝手に喋るようになっていった。
 四十九歳のころから、教室で若者と対面する身の上となった。このオヤジ、どこからどうやって来れば、こんな身勝手なお喋りオヤジになるのだろうと思われたかもしれない。好奇心旺盛な若者からは、寄席の人ですか? 劇団やってました? なんぞと訊ねられた。「いいえ、たんなる落伍者です」と応えてきた。
 じつはその応えは半ば本音だが、半分は正直でない。より正しくは、時として聴いてない素振りすらできる聴き手名人から教わって、それをゼ~ンブ捨てました、である。

 世間との関係が残存していた間は、秘中の秘に属するわが極意のごときものだった。が、もう秘匿する必要がない。金輪際人前で喋らないので。
 今、注目している喋り手はと訊ねられれば、そうですねぇ、松山千春さんでしょうか。