一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

世過ぎの文

吉川英治私本太平記』全13巻(毎日新聞社、1959~62)定価各260円

 吉川英治の時代というものが、たしかにあったようだ。徳川無声の語りによる『宮本武蔵』ラジオ朗読番組放送時間には、銭湯ががら空きになったという伝説は戦前の噺だ。戦後になっても、出世作鳴門秘帖』はテレビ時代劇にもなった。観ていた少年(つまり私)は原作者の名前なんぞ知ろうともしなかったけれども。
 戦後執筆の大作となれば『私本太平記』と『新・平家物語』だろう。その頃はすでに、辺りを払う大家による尊いお仕事といった印象だった。
 父の牧場経営が失敗して家産傾き、騎手を夢見た馬好きの少年は小学校も中退して、かずかずの職業を経験しなければならなかった。年齢を偽ってドックの船具職工となるも事故で大怪我を負い、その後いくつもの職人稼業を経めぐった。雑誌への投稿少年、懸賞への応募少年の立場から、しだいに身を起していったのである。さような遍歴を含めて「丸ごと吉川英治」が神格化され、崇められていた空気が世間にあった。

 小説作品の特色を手っとり早く呑込むには、「掴み」「さび」「さげ(オチ)」を洗い出すに限るが、吉川作品の特色はなんといっても「さび」である。掬すべき人生観・人間観を裏打ちにした、いわゆる「グッとくる」名文が作中に散りばめられてある。
 偏狭にして意味もなく尖っていた時分の私には、こんなものが文学であってたまるかと、反発心すら湧いたものだ。むろん己の青臭さに薄うす気づいているがゆえの強がりである。劣等感だ。
 書きながら生きる、書くことを通して生きる、書くことによって生きるなどなど、文学とわが人生については、無駄なことをさんざん考えてきたのだが、今思えば不思議なほどに、売れるように書くという課題については、真摯に立向かってきた覚えがない。手抜きであり、怠慢であり、思考の欠落であろう。今ごろ気づいても遅い。

直木三十五全集』全10巻(改造社、1933)定価表示なし

 奥付にも外箱にも定価表示がないところを視ると、当時の円本方式で、全巻予約の読者に次つぎ配布されていったものと思われる。
 今さら『源九郎義経』『南国太平記』『大塩平八郎』を読み返す機会は訪れまい。だが風刺的雑文やゴシップ記事の類には、今も関心がある。というより舌を巻く。パクってみたい気も起きる。

 芥川賞芥川龍之介を語る人はあっても、直木賞直木三十五を語る人は跡を絶ったかもしれない。変人中の変人として、文豪たちの交友回想録に登場する。極端に無口な人だったらしい。顔見知りではあっても、言葉を交した経験のない人もあったという。
 売文をするとなって、筆名を設定することになった。面倒くさいから「直木三十三」と名乗った。本名の「植村」から、「植」をヘンとツクリとに分けて「直木」、当時三十三歳だったから「三十三」である。三十四歳になって「三十四」と、三十五歳になって「三十五」と改めた。おもな発表舞台は『文藝春秋』で、菊池寛のいわば子分格のひとりだったが、あるとき御大菊池から「直木ッ、いつまでくだらねえ改名を続けるつもりだッ」と一喝された。そうですか、というんで、三十五で止めたままになった。

 歴史小説の連載により洛陽の紙価を高からしめるのは後の噺で、出発は『文藝春秋』連載の雑文、すなわちゴシップ記事である。文春砲だの新潮砲だの、女性週刊誌による拡散だの、今日の週刊誌文化なんぞ影も形も存在しなかった時代だ。しかも直木のゴシップ記事は耳寄りなすっぱ抜きではあっても、たんなる暴露や中傷ではなかった。読者の下司な好奇心をくすぐりながらも、人間観の穿った洞察が下敷きされていて、有徳有識の読者からも喝采を受けた。
 やはり菊池寛の子分格の一人だった川端康成は、毎号直木の記事を読むために『文藝春秋』を買ったと回想している。小林秀雄は書評やフランス文学紹介記事などを『文藝春秋』に寄せては、稿料の名目で菊池から小遣いをせしめて生活費に充てていたが、直木の記事だけは毎号欠かさず読んだと証言している。

 落語の「睨みがえし」の上を行く、直木の借金取り撃退法も語りぐさだ。ふた間しかない家のひと間では、数人の借金取りが火鉢を囲んで、順番を待っている。終始無言で、たまに交す挨拶や会話もヒソヒソ声だ。奥の間では、直木が蒲団を被って眠っている。間の唐紙は開かれたままだ。
 新しい借金取りが来訪する。先客たちに挨拶しようとすると、
 「しぃーッ、先生が今眠っていらっしゃいますから、どうぞお静かに」
 火鉢からやや遠くに席を占める。やおら直木が起きてくる。やあ諸君、おはよう、てなもんである。
 「あれば払う、今はない」あとは無言で、そこに座ったままだ。そこをなんとか……ではいつまでお待ち申したら……当然降りかかってくる言葉の数かずに対しても終始だんまりのままだ。借金取りたちは呆れた顔つきで、やがて一人また一人と、全員引取っていったという。
 なんともおかしいのは、借金取りたちが直木を恨むどころか、困り果てながらも愉しそうに帰っていったことだと、直木と同齢の広津和郎は証言している。人を喰った豪胆さにはちがいないが、とんでもない傑物である。

 私にはとうとう無縁のままに了ったが、売れる文章とはいかなるものかという問題を考えるに、今もって教材たるを喪っていない両先達である。
 だが古書肆のお世話になる。吉川英治私本太平記』を出す。『直木三十五全集』は今しばらく残す。