一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

塊と詰合せ


 鉄道に乗ったのはいつ以来だろうか。パスモを使う機会もなかった。

 空模様が悪かったり、気分が進まなかったり体調が整わなかったりして、鉄道に乗ってまでの外出をしなかった。気は焦るばかりだ。百貨店催事場の中元発送申込みカウンターで、早期申込み割引きの特典を行使できるのは、残り数日限りとなった。寝不足だろうが体調不良だろうが、今日こそは出掛けねばならない。
 床に着けば寝過ごすに決ってる。起きていよう。朝食なんぞ摂れば眠くなるに決ってる。用を済ませて帰宅してからにしよう。午前中に用足し。これが本日の最優先課題だ。

 ことごとくの側面において、引退・尻込み・自重・遠慮・ものぐさを極めこむ身に、中元のお届け先なんぞほとんどない。長年お世話になっているホームドクターお一人を除けば、遠方に住む親戚だけだ。お届けする品も一律で、すでに決めてある。
 珍しかったり気か利いたりするのが第一義ではない。もし他と重なっても迷惑でなく、日保ちの好いものに限る。今年も鎌倉富岡商会のハムにした。この数年、不動の品選びだ。

 ただし夏と冬とでは、予算は一緒でも商品は異なる。歳暮用には単品、つまり最高品質の巨きな塊(かたまり)一個。せいぜい二品組合せまで。中元用にはバラエティー、つまり詰合せだ。
 暮れ正月に向けて、あんな使いかたもしてみようこんな食べかたもしてみようと、先方さまに愉しんでいただくのが歳暮だ。いっぽう中元は暑い盛りである。台所に立つのも献立を考えるのも億劫になりがちだ。下ごしらえはおろかカットする手間すら面倒と感じられる日もあることだろう。「世話なし」が最優先となる。台所における、人間工学もしくは行動心理学である。

 商品見本がずらりと陳列されてある棚ごとに婦人店員さんが立っていて、通りすがる客に向って、説明や推奨に余念がない。衝立で囲われた一画へ踏入ると、スペースの有効利用だろうか、長机やパイプ椅子が迷路のようにレイアウトされ、ざっと五十箇所以上もの注文受付ブースで、こちらも婦人店員さんが客と対面している。
 商品陳列エリアのみならず注文受付カウンターも、どう視渡しても婦人店員さんばかりである。男性店員といえば、エリアの入口に立って順番整理券を配っている一人だけだ。まず五十年配からアラ還とおぼしき、揃いもそろってきびきびと有能そうなご婦人がたの大群といえる。凄い女性パワーだ。妙に胸打たれる光景だった。
 ―― 俺がもっとも出入り激しかったころ、この人たち全員がまだ、眼を惹かぬどころか候補にものぼらぬ「お嬢チャン」だったわけだなァ。
 老人ならではなのだろうか、ねじくれた助平ごころが一瞬胸をよぎった。

 最近ひょんなことでご恩を受けたかたが一名いらっしゃる。中元としてしまっては、先方もお返しなどお気になさるかもしれず、かえってご迷惑だ。たんなる「御礼」として、なにか軽めの品を選んで同時に済ませてしまおうと思い立ち、見本棚を歩き回ってみた。
 わが同世代にして、ご夫妻おふたり住まい。食通ではいらっしゃるが、健康上のご懸念から肉・魚にはお気をつけておいでだ。酒はご亭主満足でも夫人が不機嫌になられよう。塩分過多も遠慮すべきだろう。

 しばし考えこんだあげくに、美濃吉の胡麻豆腐を選んだ。俺はいったい、いかなる食品を食っておればよろしいのかと考え、それを同世代の先方にも押しつけた恰好だ。迷ったときには自分の躰に訊けというわけだ。そこには広い視野も高い見識も存在しないが、たしかに実在するミクロの現実味がある。
 味のほどは知っている。が、自分で注文するのは、おそらく今日が初めてだ。残りの人生、こういうものでも食うようにしてみようか。