一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

ごく粗雑に


 ようやくの晴天だ。前回の草むしりからさほどの日数が経過したわけでもないのに、草ぐさのはびこりは眼を視張るばかりだ。ご来訪者を待つ時間が少々あったので、ごく粗雑に草むしりした。

 サムイル・マルシャークの児童劇用戯曲『森は生きている』にこんな場面があった。大晦日の夜、まっ暗に閉された森のずっと奥では、井桁に組まれた薪から炎が舞上っていて、祭の準備ができている。年に一度だけ、各月の精十二人が一堂に会して、年越しを祝うのだ。そして精たちのなかで二番目の長老である十二月の精から、最長老の一月の精へと、時の杖がうやうやしく手渡されることになっている。
 準備を進めていたウサギたちリスたち、その他森の動物たちのあいだに緊張が走る。精たちの行列がおごそかに登場。先頭は長い杖を手にした十二月、次いで長い白髭の一月、三番目の長老二月と続いている。三四五月の精たちは、少年かともすると少女かと思えるほど若い。六七八月の精たちは、いかにも躰を動かしたくてならないと云わむばかりの青年たちだ。九十そして十一月の三人は、いかにもものの解った優しげな小父さんたちだ。

 さて儀式、と思ったやさき、物見のカラスから報せが入る。人間しかも少女が一人で森へ入ってこようとしていると。
 まさか! ありえない。人間たちは大晦日には、家族揃って家で過しているんだ。こんな吹雪に森へなど入れば、人間など凍え死んでしまう。どれどれ、ホントだ。少女が一人、花籠を腕にぶるぶる震えながら、おぼつかぬ足どりで森へ入ってくる。
 じつはお城でのパーティーでのこと。わがままで気紛れな女王様が、マツユキソウを摘んできた者には同量の金貨を授けると云い出し、側近の知恵者の忠告も聴き入れずに触れを出したのだった。村外れの一軒家では、欲に眼がくらんだ継母と意地悪な実娘とが、ふだんから森に詳しい継娘を、マツユキソウを摘むまでは帰って来るなと、家を追出したのだった。

 なんだってこんな日に。あの娘はだれなんだ。十二月一月二月の三長老は、この娘がなに者かを知らない。
 「わたしたちは知ってるわ。花を摘みに来て、種子をつくる親株や翌年のための根っこにはけっして手を着けない、とてもありがたい娘さんよ」
 「ぼくたちも知ってる。茸を摘んでも翌年の核まで根こそぎなんてことはないし、木の実を集めても、道具を使って丸ごとなんてことは、一度だってしたことがないぜ」
 「われわれも存じておりますなァ。薪集めに来ては枯れ枝を上手に払ってくれるので、樹木連中からはむしろ感謝されておりますよ、はい」
 長老は一同の反応に眼を丸くする。「おやおや、十二月の兄弟、二月の兄弟いかがです、どうやらあの娘さんを知らぬのは、我われ三人だけと見えますなァ」
 そんなひとくさりがあって、夢のごとき大晦日の奇跡へと、噺は進行してゆく。


 玄関から門扉までの、飛び石伝いのわずかな距離の左右を草むしりしたのは、ゴールデンウィークだった。今繁茂しているのは、それ以後に急成長してきた草ぐさで、丈高きものも頑強なものもない。が、ここで甘い顔を見せようものなら、これからの強烈陽光を吸収して、あれよあれよという間にむくつけき者どもとなる。ざっとでよろしいから、ここでひと叩きしておかねばならない。
 私は『森は生きている』の少女とは違う。シダ類やドクダミヤブガラシへの思いやりから幼芽を残しているわけではない。ひと坪十五分、飛び石通路の両側合せて三十分で作業を一段落させるためには、ごく粗雑にむしっておくほかないのである。
 毎度のことだが、手を着ければ関連作業がいろいろ発生してしまい、結局は一時間以上かかってしまった。来訪予定者を待つ間の作業と心積りしていたのに、大幅に時間オーバーだ。ところがその間に、来訪者は姿を見せなかった。

 来訪予定は、昨日来電あった不動産会社所属の外回り営業部員さんだ。電話の主と営業部員とは別人らしいから、社内連絡の行違いか、さもなければ急な事態発生によってスルーされたのだろう。
 電話では、ご来駕あっても時間の無駄ですよと再三申しあげたが、つい「御社の正当な営業活動に水を差す気はありませんが」と社交辞令を添えてしまった。それを言質に取ったかのように、せめて名刺だけでも置かせてくれとの云い分。なかば強引に「では明日十一時に参上いたします」と先方が決めたのだった。
 私としては、まだ床中にあるかも知れぬ時刻である。インターホンに反応せずではお気の毒だから、せめて眼醒めて応対しようと、目覚し時計を午前十時にセットしたのだった。そして朝食は後回しにして、待ち時間を利用して「ごく粗雑」を始めたわけだった。
 こんなことだったら、これほど粗雑でなしに、片付けたい用事もあったのに……。