一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

時の陥没



 記憶に粗密がある。回想に欠落部分がある。とある時期が、そっくり陥没してしまっているかのようだ。どなたにとっても、そういったもんなんだろうか。

 NHKラジオ深夜便』に、懐かしいヒット曲をアンソロジー的に集め聴かせるコーナーがある。一時間枠だが、定時ニュースや天気予報や交通情報が挟まるから、正味四十五分のコーナーなのだろう。作者別・歌手別・年代別・歌詞別(主題別・素材別)というように、選択基準の切口により毎回特集化されてある。一昨夜は「1972年のヒット曲」という特集だった。昭和四十七年、わが学生時分だ。荒井由実中島みゆきが勃興してくる直前というわけだ。
 野菜の皮剥きや下茹でにかかっていたところだったから、おォっとは思ったものの深くは気に留めず、流しっぱなしにしておいた。

 先頭は吉田拓郎『旅の宿』、カラオケ定番曲だ。次が山本リンダ『どうにもとまらない』、ヘソだよヘソ。ロリコン系カマトトからムンムン凄女への、リンダ突然変異宣言だった。包丁で指切らねえようにしねえとナ。
 青い三角定規ビリー・バンバン。ヒェーッ、助けてくれーっ。前向き・清潔・青春歌謡ってやつが、ホヤと同じくらい苦手だ。高校時分の修学旅行の車中で、トランジスタラジオから流れる舟木一夫を一緒に唄ってる奴がいて、お前バカかと思った記憶がある。もっと子供のころ、加山雄三さん、苦手だったなぁ。
 あがた森魚『赤色エレジー』、この年だったのか。しばし包丁の手を停めて、姿勢を正す。齢とってからのあがた森魚さんのライブ、たいそう良いんだってなぁ。出かけて聴いたことはないんだが。『深夜食堂』で片鱗が観られて、たしかに胸打たれたっけ。上條恒彦六文銭『出発(たびだち)の歌』、銀河系の先まで飛んでいった髭面のオッサンの唄だ。カラオケで唄った記憶も、確かにある。
 奥村チヨ『終着駅』、地方都市の終点駅。コートの襟を立ててスーツケースを提げた似たような女が、またもまたも降りてくる。駅つながりで石橋正次『夜明けの停車場』、これはまぁいいや。男の懺悔唄に興味はない。
 トリはちあきなおみ喝采』、この年のレコード大賞じゃなかったかしらん。詞も曲も唄も申し分なかったんだが、あまりに巧過ぎて、かえってあざとい感じがして、イマイチ乗れなかったなあ。

 当時もっともクダラネエ流行歌と思えた奥村チヨが、今聴くと一番解る。そんなふうな女を、実際になん人も知っている。ただし唄から十年以上経ってから視た光景だ。
 唄い出し冒頭かサビか、もしくはワンコーラスそっくりかを、口ずさめる曲ばかりなのに驚く。興味をもって聴いていたのはモダンジャズだったのに。また毎日のように入り浸っていた喫茶店では、ビートルズカーペンターズがつねにリピートされていたのに。
 それにしても、よくぞここまでと舌を巻くほど、力のある曲が続いた。私の興味の幅についてはひとまず措いて、今聴いてもそれぞれの主張は明瞭だ。モノを創るに、悪くない時代だったのだろうか。

 あさま山荘事件はまばらに雪の残る二月のことだった。立てこもる連合赤軍活動家を警察機動隊が制圧するもようはテレビで生放送され、NHK・民放合せた視聴率は八十九パーセントにも達した。
 日米間での沖縄施政権返還協定に佐藤栄作内閣が署名したのは前年で、この年に返還が実現した。
 また田中角栄内閣による日中国交回復の年でもある。先方から出てきたのは周恩来だ。二人が締結書面に毛筆で署名している手許を背後に立って覗き込んでいるのは、時の外務大臣で後年総理となる大平正芳だった。当時のニュース映像を今観ると、役者が揃っていたなあという感じを受ける。
 わが学生時代を前後半に二分すると、この時期が境界なのだが、前後半ともに、つまり一九七五年のベトナム戦争終結あたりまでは、わが記憶にあって年号や日付がはっきりしている気がする。ふだん忘却しているようでも、記録を参照すれば、前後の記憶が蘇る想いがする。

 ところが一九七五年以降の前後関係がはっきりしない。それまでの気まま野放図生活を切上げて、曲りなりにも社会人としての躾けを受けた点で、後年の私にとって得がたい日々だったに相違ないのだが、今となってみると、記憶細部や前後関係がじつに漠然としている。
 一九八九年の北京天安門事件を皮切りに、翌年へかけての、東西ベルリンの壁崩壊からソ連崩壊解体という時局となって、ふたたび時計の針が動き出した。世界情勢にも国際政治にも無知な私なんぞが、なにを判断したり予感したりなどできようはずもないのに、窓からまた空気が入ってきたという体感だった。

 五十年前のヒット曲を流し続ける『ラジオ深夜便』の企画書に想定された「訴求リスナー」のなかに、私は確実に含まれてある。私以外には、いかなるかたがおられるのだろうか。そのかたがたにも、記憶の粗密や時の陥没はおありだろうか。おありとすれば、いつ頃がどのように陥没しておられるのだろうか。